厳原(いづはら)(読み)いづはら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「厳原(いづはら)」の意味・わかりやすい解説

厳原(いづはら)
いづはら

長崎県下県(しもあがた)郡にあった旧町名(厳原町(まち))。現在は対馬市(つしまし)厳原町地区。旧厳原町は1919年(大正8)町制施行。1956年(昭和31)久田(くた)、佐須(さす)、豆酘(つつ)の3村と合併。2004年(平成16)美津島(みつしま)、豊玉(とよたま)、上県、峰(みね)、上対馬の5町と合併、市制施行して対馬市となる。旧厳原町は、対馬の最南部に位置する。中心集落の厳原地区は古くは国府の所在地で府中とよばれ、対馬の中心をなすとともに対馬支庁も置かれ、表玄関に相当した。現在は博多(はかた)から厳原港ジェットフォイル、フェリーが通じ、北方14キロメートルの対馬市美津島(みつしま)町に開設された対馬空港は、長崎空港と福岡空港を結んでいる。また厳原町を起点に国道382号が北上している。厳原港からは韓国の釜山(ふざん)へも船の便(不定期)がある。府中は藩政時代から島の政治、経済の中心をなす対馬藩宗氏(そううじ)10万石の城下町で、金石(かねいし)城跡は清水(しみず)山の山麓(さんろく)に位置し、かたわらの宗氏歴代の墓所万松院(ばんしょういん)は一家の墓所としては日本最大といわれ、国指定史跡である。鎖国のときも長崎とともに海外貿易港であった厳原港は、朝鮮との交易を主とし、埠頭(ふとう)から浜小路にかけて問屋商社が多く、川端(かわばた)通は歓楽街、旅館街、馬場筋(ばばすじ)通には武家屋敷が多く、いまなお往時の石垣や長屋門を残し官公署や旅館に利用されている。とくに高い石塀(いしべい)は、朝鮮使節に武家生活をのぞかれるのを避けたものと伝えられている。

 厳原港は貿易港に指定されているが、輸出入は振るわない。港は漁船の出入りが主で、イカ釣りの漁期には各地の漁船でにぎわう。北部の阿須(あず)には発電所があり、曲(まがり)は海女(あま)の集落であった。上見坂(かみざか)(標高358メートル)は浅茅(あそう)湾や対馬連山を望む絶好の地で、かつては砲台が置かれたが現在は公園になっている。上見坂を西に下った樫根(かしね)に対州鉱山(たいしゅうこうざん)跡がある。鉱山の歴史は古く、674年(天武天皇3)日本で最初の産銀に始まり、明治時代に亜鉛、鉛が採掘され、1939年(昭和14)以後、東邦亜鉛の経営に移り、1973年(昭和48)閉山。現在付近はカドミウム汚染対策地域、カドミウム汚染要観察地域に指定されている。西海岸の小茂田(こもだ)は元寇(げんこう)の古戦場として知られ、町の南部の内山盆地は花崗(かこう)岩地帯の侵食盆地で、鮎戻(あゆもど)しの渓谷がある。南端の豆酘は半農半漁村で、豆酘美人の伝説をもつ美女塚があり、豆酘崎は景勝地で、付近に大型定置網が敷かれている。旧厳原町役場(現、対馬市役所)近くの県立対馬歴史民俗資料館では縄文、弥生(やよい)時代の考古資料や宗家の遺品などを展示している。

[石井泰義]

『『厳原町誌 史料編』1・2(1995~1997・厳原町)』

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