叡福寺(読み)エイフクジ

デジタル大辞泉 「叡福寺」の意味・読み・例文・類語

えいふく‐じ【叡福寺】

大阪府南河内郡太子町にある、単立宗教法人の太子宗の寺。もと高野山真言宗。山号は磯長しなが山。院号は聖霊院聖徳太子の墓所に、追福のため聖武天皇の勅願で神亀元年(724)創建。八尾市勝軍寺を「下の太子」と呼ぶのに対して、「上の太子」という。石川寺。磯長寺。御廟寺。

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精選版 日本国語大辞典 「叡福寺」の意味・読み・例文・類語

えいふく‐じ【叡福寺】

  1. 大阪府南河内郡太子町にある真言系単立寺院。山号は磯長(しなが)山。神亀元年(七二四)聖武天皇の勅願により聖徳太子の御陵前に廟堂として建立。太子一六歳の植髪像をまつってある。八尾市の大聖勝軍寺の下の太子に対し、上の太子という。太子堂。磯長寺。石川寺。御廟寺。

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日本歴史地名大系 「叡福寺」の解説

叡福寺
えいふくじ

[現在地名]太子町太子

単立寺院。磯長山聖霊院と号し、本尊は如意輪観音石川いしかわ寺・磯長しなが寺・御廟ごびよう寺ともよばれ、下太子大聖勝軍しものたいしたいせいしようぐん(現八尾市)中太子野中なかのたいしやちゆう(現羽曳野市)とともに上太子かみのたいしと並称される。聖徳太子は推古天皇三〇年二月二二日に没し当地に葬られた。すでに同二七年当地に自らの墓所を築いていたともいう(聖徳太子伝補闕記)。墓は伽藍の北側にある。寺伝によると、推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まると伝え、神亀元年(七二四)聖武天皇の勅願によって広大な伽藍が建立されたという。六町四方の寺地を下賜され、東西二院形式をとり、東院を転法輪てんぽうりん寺、西院を叡福寺と称したと伝える。また守戸の僧坊が一〇宇あったという(河内名所図会)

古くより皇室をはじめ人々の尊崇を集め、太子信仰の隆盛に伴って四天王寺(現天王寺区)・大和法隆寺とともにその中心となり、天皇の行幸や寄進、高僧の来訪するところとなった。叡福寺文書によると、後嵯峨天皇中宮大宮院(藤原子)遺骨を太子廟前に納めたことがあり、また崇徳天皇は大治元年(一一二六)水田二〇町歩を寄進し、永仁二年(一二九四)には後深草上皇院宣により高安たかやす(現八尾市)が寄進された。承安年間(一一七一―七五)平清盛勅命によって重盛堂宇の修築をさせたという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「叡福寺」の意味・わかりやすい解説

叡福寺
えいふくじ

大阪府南河内(かわち)郡太子(たいし)町にある単立寺院。もとは高野山(こうやさん)真言宗。磯長山聖霊院(しながさんしょうりょういん)と号し、磯長寺、上(かみ)の太子(たいし)、石川寺、御廟(ごびょう)寺ともいわれる。622年(推古天皇30)、聖徳太子が没すると当地の墓所に葬られ、推古(すいこ)天皇の勅により堂宇が建立されたのが草創。724年(神亀1)聖武(しょうむ)天皇により七堂伽藍(がらん)が整備された。歴代の天皇に尊崇され、鎌倉時代には亀山(かめやま)上皇から荘園(しょうえん)の寄進を受け、石高2万石に及んだという。また空海、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)ら諸宗の高僧が崇敬し参籠(さんろう)した。1574年(天正2)兵火により焼失したが、1603年(慶長8)に豊臣秀頼(とよとみひでより)により再興、聖霊殿(しょうりょうでん)(国の重要文化財)など諸堂が再建された。現在の多宝塔(国の重要文化財)、金堂、念仏堂などは再興後の建立。境内正面奥の陵には太子の生母(穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后)と太子の妃(きさき)も葬られており、三骨一廟(びょう)といわれる。寺宝の文殊渡海図(もんじゅとかいず)、高屋連枚人(たかやのむらじひろひと)墓誌は国の重要文化財。4月10~12日の聖徳太子御法会(ごほうえ)(上の太子御会式(ごえしき))は多数の参拝者でにぎわう。

[大鹿実秋]

『金本朝一著『太子町・当麻の道』(1978・綜文館)』

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百科事典マイペディア 「叡福寺」の意味・わかりやすい解説

叡福寺【えいふくじ】

聖徳太子

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事典・日本の観光資源 「叡福寺」の解説

叡福寺

(大阪府南河内郡太子町)
大阪みどりの百選」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の叡福寺の言及

【聖徳太子】より

…917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。【関 晃】
[聖徳太子の伝承]
 《日本書紀》がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は,奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。…

※「叡福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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