単立寺院。磯長山聖霊院と号し、本尊は如意輪観音。
古くより皇室をはじめ人々の尊崇を集め、太子信仰の隆盛に伴って四天王寺(現天王寺区)・大和法隆寺とともにその中心となり、天皇の行幸や寄進、高僧の来訪するところとなった。叡福寺文書によると、後嵯峨天皇中宮大宮院(藤原子)の遺骨を太子廟前に納めたことがあり、また崇徳天皇は大治元年(一一二六)水田二〇町歩を寄進し、永仁二年(一二九四)には後深草上皇院宣により
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府南河内(かわち)郡太子(たいし)町にある単立寺院。もとは高野山(こうやさん)真言宗。磯長山聖霊院(しながさんしょうりょういん)と号し、磯長寺、上(かみ)の太子(たいし)、石川寺、御廟(ごびょう)寺ともいわれる。622年(推古天皇30)、聖徳太子が没すると当地の墓所に葬られ、推古(すいこ)天皇の勅により堂宇が建立されたのが草創。724年(神亀1)聖武(しょうむ)天皇により七堂伽藍(がらん)が整備された。歴代の天皇に尊崇され、鎌倉時代には亀山(かめやま)上皇から荘園(しょうえん)の寄進を受け、石高2万石に及んだという。また空海、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)ら諸宗の高僧が崇敬し参籠(さんろう)した。1574年(天正2)兵火により焼失したが、1603年(慶長8)に豊臣秀頼(とよとみひでより)により再興、聖霊殿(しょうりょうでん)(国の重要文化財)など諸堂が再建された。現在の多宝塔(国の重要文化財)、金堂、念仏堂などは再興後の建立。境内正面奥の陵には太子の生母(穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后)と太子の妃(きさき)も葬られており、三骨一廟(びょう)といわれる。寺宝の文殊渡海図(もんじゅとかいず)、高屋連枚人(たかやのむらじひろひと)墓誌は国の重要文化財。4月10~12日の聖徳太子御法会(ごほうえ)(上の太子御会式(ごえしき))は多数の参拝者でにぎわう。
[大鹿実秋]
『金本朝一著『太子町・当麻の道』(1978・綜文館)』
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…917年(延喜17)成立の《聖徳太子伝暦》に至って,太子の伝説化はほぼ完成されたといってよく,以後平安時代から鎌倉時代にかけて,太子信仰が広く普及していった。太子は敏達・推古両天皇の女の菟道貝鮹(うじのかいだこ)皇女,膳加多夫古(かしわでのかたぶこ)の女の菩岐岐美郎女(ほききみのいらつめ),蘇我馬子の女の刀自古郎女(とじこのいらつめ),尾治(おわり)王の女の猪名部橘(いなべのたちばな)女王などを妃として,山背大兄(やましろのおおえ)王(刀自古郎女の所生)をはじめ数多くの子女を生んだが,622年2月22日に斑鳩宮で病死し,河内の磯長墓(しながのはか)(いま大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺境内)に葬られた。【関 晃】
[聖徳太子の伝承]
《日本書紀》がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は,奈良時代には法隆寺や四天王寺でまつられていた。…
※「叡福寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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