平安時代中期以降用いられた身分呼称の一つ。奈良時代の奴婢(ぬひ)あるいは家人(けにん)に系譜を引くと言われる隷属民。時代により性格は変化し,同時期でも存在形態は一様ではなかった。平安時代においては寺家,貴族,武士,名主(みようしゆ)等に隷属する家内奴隷的存在で,農耕,雑役,軍役等に駆使された。所領田畠や家屋,家畜と同様に譲与,売買,質入れの対象とされたが,所従と異なり土地を給与されることはなかったようである。所従と下人とはともに不自由民で類似した歴史的存在であるが,土地給付の有無に両者の相違点が見いだせる。下人のほうが所従より隷属度が強いと言うことができよう。下人に子が生まれると,その子は母に付けて譲与,売買された。
鎌倉時代に入っても下人の性格は基本的には変わらない。1233年(天福1)高野山金剛峯寺の所司が備後国大田庄の地頭の非法を訴えた文書によれば,この地頭の代官は〈百姓を駈り集め,昼夜朝夕,相伝譜代の下人の如く,候召仕せしむ〉とあるように,一般農民を下人のごとく駆使したという。これを逆に見れば下人というものがいかに人格を無視され,いかに酷使される存在であったかがわかるであろう。このように鎌倉期においても下人の性格はほとんど変わらないが,幕府という新しい武家政権が誕生したことから,幕府法内での不自由民の扱いに,それまでとは異なる特質を見いだすこともできる。まず幕府法にあっては不自由民は〈下人所従〉もしくは〈奴婢雑人(ぞうにん)〉の呼称で呼ばれた。どちらも同じ内容であるが,どちらかといえば法的正式名称としては奴婢雑人のほうを用いることが多かったようである。このほか隷属民の総称としてはただ〈下人〉とのみ言う場合もあった。その一方で地頭の隷属民を〈地頭所従〉,百姓のそれを〈百姓下人〉と呼んで両者を区別することもある。鎌倉幕府の下では下人は広義には隷属民一般を指し,狭義には百姓の隷属民のみを意味したと言うことができよう。また幕府法では下人所生の子は,男子は父に,女子は母に付く決りで,この点どちらも母に付くとする従来の公家法とは異なりをみせている。なおこうした下人の逃亡や質入れによって,当該下人に対する所有権の争いが起こった場合,幕府法では10年以上過ぎていれば新所有者を合法的所有者として認める方針をとっている。1230-31年(寛喜2-3)の大飢饉では下人を売ったり質入れしたりする者が急増し,そのために下人の帰属をめぐる訴訟が頻発したようである。
鎌倉末期になると,このような人身売買を罪悪視する傾向が強くなり,同時に荘園制の変質にともなって下人自身の性格にも変化が見られるようになる。すなわちそれまでの下人は主人の屋敷内に居住させられるのが一般であったが,この期になると屋敷外に小屋とわずかな土地を借りたり譲られたりして,零細な農耕経営を行う者が現れてくるのである。室町時代に入ると下人の独立化の傾向は強まり,従来の隷属性の強い下人のほかに,年季を決めて売買される下人が出現した。前者すなわち代々隷属する財産としての下人を譜代奉公人と呼ぶのに対し,この新しく起こった年限付きの下人を年季奉公人と呼んだ。このような年季奉公人の出現は,領主の農民への賦課の基本形態が,賦役労働から現物地代へと変化したことに対応して起こったものと考えられる。しかし一方では譜代の下人が依然として残存し,江戸時代に入っても辺境の農山村を初め,庄屋,名主(なぬし)の下で駆使され続けた下人が少なくない。ただ一般的傾向としてはしだいに解放されて年季奉公人化し,それにつれて下人という呼称もすたれ,江戸末期には下男,下女と呼ばれるようになった。明治時代以降この下男,下女は,資本主義経済の下で賃金労働者としての性格をもつようになるが,人身売買のなごりは明治以後もなお根強く残存した。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安時代以降の隷属民の身分呼称。平安期王朝貴族の下級役人以下庶民一般をさす呼称として用いられた。その場合、かならずしも特定の人に人身的に従属する者をさしてはいなかったが、鎌倉期には売買、相続の対象となる奴隷身分呼称として「所従(しょじゅう)」とともに多く使われるようになる。鎌倉幕府法では「奴婢雑人(ぬひぞうにん)」と称し、その所有権をめぐる紛争を調停するためのルールが示されており、同様な法規定は戦国家法(かほう)にもみられる。このような存在は、中世社会にあって飢饉(ききん)時のみならず平常時でも、年貢(ねんぐ)や諸公事(くじ)の重圧やそれに起因した私的債務などによって租税負担者の家族が売られるなどして絶えず生み出された。生活形態は多様であり、家族をなし小規模の自己経営をもつこともあったが、法的保護はなく所有者の恣意(しい)により左右される存在であった。近世になると租税徴収体系が変化したことから、公権力は小農民維持政策をとり、租税負担者の奴隷身分への転落を阻止することになる。また奴隷労働による地主手作(てづくり)経営が衰え、奴隷的存在が減少し、下人とは一般的には期限を限りその労働力を提供する年期奉公人をさすことになるが、辺境地域には奴隷身分としての下人も残存した。
[磯貝富士男]
『安良城盛昭著『増補 幕藩体制社会の成立と構造』(1964・御茶の水書房)』▽『大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』
中世には隷属民の身分呼称で,所従と同様に世襲的に人身隷属支配をうけた。名主・百姓と下人・所従が,中世の2大被支配身分である。古代の下人は奴婢に限らず下層の被支配者を広く概括した呼称なのに対して,中世の下人は百姓などから転落して主人の支配下で使役された身分である。財産同様に売買・譲与され,主人を訴える主従対論も禁じられた。中世を通じて主人から離脱する動きがみられたが,新たに下人になる者もたえなかった。その契機には,みずから保護を求めた場合,贖罪のため従属契約書である曳文(ひきぶみ)をだした場合,債務で身代となった場合,人身売買された場合などがある。近世には名子(なご)同様の隷属農民,または奉公人一般をさす呼称になった。
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…例えば《吾妻鏡》正治元年(1199)4月27日条には,〈東国分地頭等〉に命じて〈水便荒野〉を新開せしめたとある。中世後期以降になると,家長ないし主人の公認のもとに家族員や下人たちが荒地を少しずつ開墾していったが,こうした小規模な開墾地をとくに新開と称する場合が多くなり,〈ほまち〉と同様に,彼らの小農民としての成長・自立の条件となった。そして,太閤検地や江戸初期の検地によって,すでに新開として開かれていた土地は,彼らの高請地とされた。…
…しかしこの時期には石母田に代表される領主制説に基づく中世社会論が支配的であったが,1950年代後半以降,これに対する反省・批判が表面化するとともに,清水の説が新たに再評価されはじめる。公家(くげ),寺家(じけ),社家(しやけ),武家(ぶけ)など,相互補完関係に立つ諸権門による農民(百姓)の支配に,中世社会の基本的な支配関係を見いだす黒田俊雄をはじめとして,大田文(おおたぶみ)に登録された公田(こうでん)を重視し,領主の私的隷属下におかれた下人(げにん)と異なる平民百姓を〈自由民〉と規定,領主に対する百姓の抵抗を評価する説が台頭してきた。石井進はこれを領主制説に対する反領主制説としているが,この2潮流は相互に交錯しつつも,二つの中世社会論として現在にいたっている。…
…名子の史料は数少ないが,畿内,中国,九州,北陸,陸奥の各地に散見し,ほぼ全国的に存在したことが確かである。名子は妻子,眷属,脇の者,下人(げにん)などと並び称されており,主人の家の内部の存在で,その家父長的支配に属すべきものとされていた。しかし前記の薩摩国谷山郡の名子が馬や銭を保有し,鎌倉時代末の加賀国軽海(かるみ)郷の名子江四郎なるものが板を売りに市へ出かけるなどの例を見ると,その経済的地位は必ずしも低いものばかりではなかったようである。…
…荘園領域を限っての肥草料用の草刈利用の制限などもみられる。室町期に入ると,名主上層,在地の荘官,地頭などの名田(みようでん)を多く集めるものがみられ,それらは下人を使う手作地をもつとともに,下人層や傍系血族の手による新開(しんがい)地の開発,所有がみられ,戦国期を経て,近世への動きが進む。
[江戸時代の諸相]
江戸時代の農家の典型は,太閤検地によってつくり出された小農で,家族労働による小規模農業とされる。…
…そのほか年頭の挨拶に,家によって定まる穀物・チョマ(苧麻)・桶などの定量を持参する例もある。なお領主資料の一つである宗門人別改帳には,地主の宗門にこめられて,家族・下人にならんで家族なみに記載され,一地主の家族数の合計が200人を超す例もみられる。このように被官百姓家の多い村では,被官百姓は門屋敷や地主の家の周辺に住むのではなく,村中に分散居住している。…
…(1)日本の中世後期,在地領主層や戦国大名のとった欠落(かけおち)者の連れ戻し策。中世後期の社会を通じて広く現れた武家奉公人,百姓,下人などの欠落は,在地領主や土豪の支配や経営の基盤を不安定にしたばかりでなく,逃亡した領民の他領からの連れ戻し問題は,在地領主や土豪相互間の深刻な対立を引き起こす原因ともなった。そのため,室町期の在地領主層は互いに欠落者の拘束と相互返還,つまり人返しを主要な課題として個別に協定を交わしたり,より広く組織的に一揆の契約を結んだりした。…
…それは公務に関する場合もあったが私的な労働強制であることも多く,百姓との間につねに緊張を生みだした。また上層農民が家父長制的な実力によって,あるいは村役人としての公認された特権によって村内の百姓を使役することも続いており,家族内にふくまれる下人的身分の下層民を使役することも広くみられた。 このような状況は,近世国家がめざす小農民の自立,百姓数の増大という目標を阻むものであった。…
…百姓はもちろん,武士も古くから存在していた。武士は貴族など身分の高い人のそばに仕えて警護にあたり,鎌倉幕府の御家人として守護・地頭などに補任され,あるいは荘官などに登用されるような土豪的存在であるが,中世末には,彼らは広大な土地を所有し,自己の屋敷内に抱えた多くの下人を使役して農業経営を営む主体であった。地侍・名主百姓なども経営規模に差はあるものの,実体としてはこれと同じで,みずからも武装していた。…
…また公民の籍帳から外れた浮浪人も平民とはみなされなかったが,浮浪帳に編付され調庸を負担している浮浪人は,弘仁年間(810‐824)の太政官符により水旱不熟の年には平民に準じて調庸が免除されることになった。やがて籍帳による支配の崩壊にともなって公民と浪人の区別がなくなり,公田を請け負って経営する大小の田堵(たと)百姓らが一般に公民,平民と呼ばれるに至り,荘民・寄人(よりうど)や下人(げにん)・所従(しよじゆう)との区別が生まれてくる。寛徳・延久の荘園整理令(1045,69)は公民の荘民化について,〈平民おのれを顧みる者〉とか〈恣(ほしいまま)に平民を駈(か)り〉と述べ,また荘園側も〈平民に準じて方々色々の雑役を充て責める〉,荘民は〈平民公田の負名ではない〉と反論したことにみられるように,当時の平民は荘民と区別された公民を意味した。…
…1842年(天保13)ころに実際に支払われていた1ヵ年の給金は,足軽は金3両より6両くらいまで,中間は金2両2分より3両くらいまで,六尺は金6両2分より12,13両くらいまで,おなじく日雇銭は,徒士は銭272文より300文,足軽は銭148文より224文,六尺は銀2匁5分くらいより10匁くらいまでであった。【北原 章男】
【農村奉公人】
近世農村の奉公人は一般に譜代,下人,下男,下女などと呼ばれていた。その雇用関係の内容は時期により,また地方により多種多様であるが,身分関係,契約形式,労働対価支払方式,雇用期間などをメルクマールにして譜代下人,質券奉公人,居消(いげし)奉公人(押切奉公人,居腐(いぐされ)奉公人),年季奉公人(年切奉公人),出替奉公人(一季奉公人),日割(ひわり)奉公人,季節雇,日雇などの諸類型に区分される。…
※「下人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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