日本歴史地名大系 「和霊神社」の解説
和霊神社
われいじんじや
公頼は仙台藩主伊達政宗の家臣で家禄五〇貫をあてがわれていた。慶長一九年(一六一四)一二月、政宗の長子秀宗が宇和郡一〇万石の領主になると、政宗は公頼を惣奉行(家禄一千石)として秀宗につけた。公頼は翌年一月に宇和島に来て、藤堂高虎の家臣田中林斎らから城地を請け取り、三月の秀宗の入国の準備をした。秀宗は入国当時、政宗から多額の借金(六万両という)をしていたために藩財政は苦しく、元和四年(一六一八)その返済方法をめぐって藩内が紛糾した。結局、公頼の献策によって一〇万石のうち三万石を政宗の隠居料として割くことになった。同五年には幕命により宇和島藩は大坂城修築工事を命ぜられ、公頼と侍大将桜田玄蕃元親が奉行として大坂に派遣された。
その間に藩内に派閥が形成され、桜田玄蕃らは公頼に異心ありとして秀宗に讒訴したといわれる。元和六年六月二九日夜、刺客数人が山家邸(現宇和島市丸之内和霊神社境内地)を襲い、公頼を斬殺し、次男治部、三男丹治らや公頼の女婿塩谷内匠父子らを斬った。公頼は四二歳であった。その死については切腹説、桜田玄蕃との私闘による斬殺説等もあるが、「御仕置」ということばが用いられているところからみて、秀宗の密命によると考えるのが妥当であろう。
事件後、寛永九年(一六三二)金剛山正眼院
和霊神社
われいじんじや
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報