正長の土一揆(読み)ショウチョウノツチイッキ

デジタル大辞泉 「正長の土一揆」の意味・読み・例文・類語

しょうちょう‐の‐つちいっき〔シヤウチヤウ‐〕【正長の土一揆】

正長元年(1428)畿内一帯に起きた徳政一揆近江おうみ馬借の蜂起に始まり、酒屋土倉どそうなどを襲って私徳政を行った。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「正長の土一揆」の意味・わかりやすい解説

正長の土一揆【しょうちょうのつちいっき】

1428年(正長1年)に畿内(きない)を中心として起こった土一揆の総称。畿内および近国の百姓馬借(ばしゃく)らは,自らの債務破棄を求めるため徳政令を要求して蜂起,そのため徳政一揆とも呼ばれた。京都や奈良では酒屋や土倉(どそう)が襲われ,質物が奪還されるとともに,証文類が焼却された。このため近江国の守護六角氏や奈良興福寺などが徳政令を発布している。この一揆が与えた社会的影響は大きく,奈良興福寺大乗(だいじょう)院門跡(もんぜき)の僧尋尊(じんそん)は《大乗院日記目録》の中で〈天下の土民蜂起す,徳政と号して酒屋・土倉・寺院等を破却せしむ,(中略)およそ亡国の基(もとい)これにすぐべからず,日本開白(かいびゃく)以来,土民の蜂起これ初めなり〉と記している。→嘉吉の土一揆
→関連項目薩戒記徳政一揆馬借一揆

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「正長の土一揆」の意味・わかりやすい解説

正長の土一揆
しょうちょうのつちいっき

1428年(正長1)8月に近江(おうみ)(滋賀県)より始まり、京都、奈良さらに畿内(きない)近国へと広がった、徳政(とくせい)を求める土民(どみん)(百姓)の一揆。以後15世紀から16世紀にかけて各地で蜂起(ほうき)する大規模な徳政一揆の先駆けとなるもので、当時の支配層に大きな衝撃を与えた。のちに興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)は「日本開白(闢)(かいびゃく)以来、土民蜂起これ初めなり」と記している。このとき幕府の徳政令は発布されなかったが、28年から翌年にかけて各地でさまざまな徳政が実施された。京都の土一揆は東寺(とうじ)を拠点に市中の土倉(どそう)、酒屋に押し寄せ、借銭、質物を取り返す私(し)徳政を行い、奈良では興福寺に徳政令を出させることに成功している。また柳生(やぎゅう)の徳政碑文は、里別に徳政が行われたことを物語っている。この土一揆の規模は、伊賀、伊勢(いせ)、大和(やまと)、紀伊、和泉(いずみ)、河内(かわち)、丹波(たんば)、摂津、播磨(はりま)に及ぶもので、荘園(しょうえん)制支配のもとでの年貢収奪に加え、それに吸着して、深く浸透してくる高利貸資本の収奪に苦しんでいた広範な民衆を巻き込んで展開された。

[酒井紀美]

『鈴木良一著『純粋封建制成立における農民闘争』(『社会構成史体系 第2』所収・1949・日本評論社)』『村田修三著「惣と土一揆」(『岩波講座 日本歴史7』所収・1976・岩波書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「正長の土一揆」の意味・わかりやすい解説

正長の土一揆 (しょうちょうのつちいっき)

1428年(正長1)に各地で起きた土一揆の総称。8月には近江国で徳政令を要求した一揆が蜂起し,同月守護六角氏は8月中に〈山上山下一国平均〉の徳政令を出した。ついで9月には醍醐など京郊の一揆の蜂起が見られたが,これは幕府の軍勢によって鎮圧された。11月にも土一揆が京中を攻めたが,幕府から徳政令が出されなかったようである。また同月には,南山城の木津,加茂などの馬借が奈良を攻め,これに宇陀郡の一揆が加わって徳政令の発布を要求した。そのため,11月25日に興福寺は奈良中に7ヵ条からなる徳政令を出した。この徳政令は《東大寺薬師院文書》の中に写しが伝えられているが,正長1年の徳政令の全文が残っているのは,この興福寺の徳政令だけである。それによると,現質,利銭,出挙は3分の1をもって請け出すことや去年以前の未進年貢は免除することなどが決められている。大和ではこの奈良の徳政令のほかに,各地に里別の徳政令が出されたといわれているが,その内容は明らかでない。このほか正長1年に徳政令要求の一揆が蜂起した国として,播磨,伊賀,伊勢,河内,和泉,若狭の各国が挙げられる。また近江,大和以外で徳政令が発布されたことが知られるのは河内,摂津,播磨の3ヵ国である。このように正長1年には,京都,奈良だけでなく広い範囲にわたって一揆が蜂起したために,尋尊の《大乗院日記目録》には〈一天下の土民蜂起す,(中略)およそ亡国の基これにすぐべからず,日本開白(かいびやく)以来,土民の蜂起,これ初めなり〉と評されている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「正長の土一揆」の解説

正長の土一揆
しょうちょうのつちいっき

1428年(正長元)近江国,京都で徳政実施を求めた武士・民衆が武装蜂起し,畿内近国に内乱状況が波及した事件。この年は将軍が足利義持から足利義教に,天皇が称光天皇から後花園天皇にかわった年で,また疫病がはやり,全国的に飢饉の年でもあり,代替りなど時代の変り目をきっかけになされる徳政の始まりを当時の人々に予感させた。近江で徳政の沙汰があったことをきっかけに9月,京都醍醐で土民が蜂起。借用証文を奪取し,質物を奪い返してみずから徳政を実施する私徳政を行い,11月には京都市中で土一揆が私徳政を行い,さらに奈良でも土一揆が蜂起した。この動きは伊賀・伊勢・大和・紀伊・和泉・河内・播磨の各国へも波及,さらに翌年播磨・大和宇多郡・丹波・伊勢・出雲の各地で土一揆が蜂起した。このとき近江では山門(延暦寺)領を含む一国平均の徳政が行われ,大和でも地域ごとの徳政が行われた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「正長の土一揆」の解説

正長の土一揆
しょうちょうのつちいっき

室町中期,畿内一帯におこった大規模な土民蜂起
1428(正長元)年,近江坂本の馬借の一揆に端を発し,山科・醍醐 (だいご) など京都近郊の土民が蜂起し,酒屋・土倉を襲い,幕府に徳政を要求し,幕府の拒否にもかかわらず,実力で債務破棄を断行した。一揆は畿内一帯に波及し,その規模の大きさと社会に対する影響は大きかった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の正長の土一揆の言及

【近江国】より

…馬借は運輸業のみではなく農耕にも携わっていたから,実際は農民の一揆と馬借の蜂起とは区別しがたいのである。〈日本開白(闢)以来,土民の蜂起,これ初なり〉(《大乗院日記目録》)といわれた1428年の正長の土一揆も,坂本の馬借の蜂起にはじまり,京都から畿内一円にひろがったものである。山門統制下の馬借が土一揆で指導的役割を果たした結果,近江の土一揆は特殊な政治的色彩を帯びることもあった。…

【嘉吉の乱】より

…1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。…

【土一揆】より

…中世の民衆の集団的な蜂起。土一揆の語の初見は1354年(正平9∥文和3)だが,本格的な一揆の展開するのは1428年(正長1)の正長の土一揆以後で,15世紀を中心に16世紀にも及んだ。土一揆は土民一揆の略で〈どいっき〉と発音したと推定することも可能だが,仮名書きの史料では〈つちいっき〉と記されている。…

【徳政一揆】より

…1428年(正長1)以後のおもな土一揆はこの徳政一揆である。鎌倉幕府のいわゆる永仁の徳政令以来,債務破棄と土地取戻しを内容とする徳政を期待する風潮が諸階層の間に強まってきて,それを実行する各地の散発的な動きが積み重なって,正長の土一揆に爆発したといえる。徳政一揆の内容は,土倉を襲って借書を焼き質物を取り戻すことによって個別に債務を破棄するいわゆる私徳政と,幕府や守護などの地方権力に徳政令の発布を要求することの二つからなる。…

【馬借一揆】より

…26年には坂本の馬借が,北野の麴座の麴室(こうじむろ)独占による米価下落に端を発する強訴で,祇園社と北野社の占拠を企てて幕府軍と対峙した(《満済准后日記》)。このように,大津,坂本の馬借の蜂起は,経済的な権益をめぐる争いを,伝統的な山門の僧兵の強訴の形を踏襲して行ったものであったが,28年(正長1)のいわゆる正長(しようちよう)の土一揆以後,徳政を要求する土一揆に際して各地の馬借が活躍した。正長の土一揆で馬借の動きが史料上に確認されるのは,11月に奈良に向かった山城の馬借数千人であるが(春日神社〈社頭之諸日記〉),発端となった8月の近江の地下人(じげにん)の徳政蜂起の中に,大津,坂本の馬借も参加したと推定される。…

【柳生】より

…また春日社領神戸四ヵ郷のうちに大楊生郷,小楊生郷があった。現在,柳生町の山沿いの道のかたわらに正長の土一揆の際の柳生徳政碑(史)があり,神戸四ヵ郷の債務破棄を明記した文言が残る。新陰流の剣法で知られる柳生氏は当地の土豪で,将軍徳川秀忠,家光の兵法師範をつとめた柳生宗矩は1636年(寛永13)大名に列し,柳生の正木坂に陣屋を置いた。…

※「正長の土一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android