幕末に台頭した柔術の一流派。流祖は磯又右衛門正足(いそまたえもんまさたり)。正足は、本名岡山八郎治(はちろうじ)、伊勢(いせ)国松坂在勤の紀州藩士の家に生まれる。幼少より武術を好み、15歳のとき江戸へ出て、楊心(ようしん)流の一柳織部義路(ひとつやなぎおりべよしみち)の門に学ぶこと7年、師の死後、さらに真之神道(しんのしんとう)流本間丈右衛門正遠(ほんまじょうえもんまさとお)(環山(かんざん))に入門し、6年たらずでその奥義を究めたという。
ついで廻国修行の途中、東海道草津宿で、人助けのため、門人西村某(ぼう)とわずか2人で、100余人の者を相手にした際、初めて当身(あてみ)の効用を悟り、さらに真(しん)の当(あ)てを求めて修行を重ね、1822年(文政5)2流をあわせ、新しいくふうを加えて、天神真楊流を標榜(ひょうぼう)し、江戸・神田お玉が池に道場を開いた。のち、ゆえあって一時栗山(くりやま)又右衛門と称したが、1828年幕臣磯氏に入り婿して磯又右衛門正足と名のり、柳関斎(りゅうかんさい)と号した。
教授の内容は、最初に真之神道流の手解(てほどき)7本に新しく5本を加えて12本とし、ついで初段には両流から選んだ居捕(いどり)・立合(たちあい)各10本、次の中段には居捕・立合各14本に投捨(なげすて)20本、さらに極意上段には立合・居捕各10本、これに加えて経絡(けいらく)、急所および誘活(さそいかつ)、襟活(えりかつ)、陰嚢活(いんのうかつ)、惣活(そうかつ)などの活法(かっぽう)や打ち身の治療に用いる薬法に至るまで、その懇切さで人気が高かった。また門人には、次男の又一郎正光(まさみつ)(2代)や、又一郎の養子となった又右衛門正智(まさとも)(3代)をはじめ、野原柳之輔(りゅうのすけ)、原田要人之輔や、明治になって講道館柔道の創始者嘉納治五郎(かのうじごろう)の師となった福田八之助(はちのすけ)(1828―1879)らが有名であった。
[渡邉一郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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