土井ヶ浜遺跡(読み)どいがはまいせき

日本歴史地名大系 「土井ヶ浜遺跡」の解説

土井ヶ浜遺跡
どいがはまいせき

[現在地名]豊北町大字神田上 土井ヶ浜

ひびき灘に面した土井ヶ浜に近い砂丘にある弥生時代前期末から中期初頭にかけての集団墓地と、古墳時代初頭の生活跡との複合遺跡。ことに前者は二〇七体もの人骨を出土した埋葬遺跡として広く知られる。

古くから人骨が発見され、蒙古来襲の古戦場と伝えられていたが、昭和六年(一九三一)砂堆の中から箱式石棺と人骨が発見されたことが端緒となり、調査が行われた。昭和二八年から同三八年にかけて発掘調査が行われた(「山口県土井ヶ浜遺跡」日本農耕文化の生成・一九六一年)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土井ヶ浜遺跡」の意味・わかりやすい解説

土井ヶ浜遺跡
どいがはまいせき

山口県下関市豊北(ほうほく)町神田上(かんだかみ)に所在する弥生(やよい)時代の墓地の遺跡。響灘(ひびきなだ)沿岸の小平野中央に、海岸線とは直角方向に風成砂丘が形成されており、遺跡は狭長な砂丘の稜線(りょうせん)沿いに広がっている。範囲は1万平方メートル内外と推定される。1953~56年(昭和28~31)、80~85年の二期10次にわたる発掘調査の結果、240体余の弥生前期末から中期に属する人骨が出土した。前期の墓域は東寄りに、中期のそれは西寄りにある。人骨の多くは仰臥屈葬(ぎょうがくっそう)の形跡をとどめているが、仰臥伸展葬、俯臥(ふが)屈葬例も若干ある。埋葬施設を伴わず、砂中に埋められたもの、四隅に礫(れき)を配するもの、少数ながら、石囲いや箱式石棺(はこしきせっかん)に葬られたものもある。遺体の着装した碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)、貝製腕輪、指輪などの装身具もみいだされている。これらの遺体は、弥生前・中期の集団墓の実態を示すとともに、その長身・高顔の形式的特徴は、弥生時代人種論の資料としても重要視されている。1962年国史跡に指定。93年(平成5)には「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が開館した。

[金関 恕]

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国指定史跡ガイド 「土井ヶ浜遺跡」の解説

どいがはまいせき【土井ヶ浜遺跡】


山口県下関市豊北町にある墓地跡。響(ひびき)灘の土井ヶ丘近くの砂丘にある、弥生時代前期から中期にかけての集団墓地遺跡。1953年(昭和28)から1957年(昭和32)にわたって一部地域が発掘調査され、200体余の人骨が発見された。人骨が多数発見されたことは人類学上貴重で、また当時の埋葬習俗を知るうえでも重要として、1962年(昭和37)に国の史跡に指定された。発見された埋葬施設は、石を四隅に配したもの、石で囲ったもの、組み合わせ式箱形石棺、施設もなく掘った穴に砂をかけただけのものなどに分類される。2体以上が一緒に埋葬されているもの、頭骨のみが並べられているもの、また、石鏃(せきぞく)・サメ歯の鏃(やじり)が射込まれた状態で埋葬されたものなども発見された。副葬品には、硬玉製勾玉(まがたま)、碧玉(へきぎょく)岩製管玉(くだたま)、貝製小玉、ガラス製小玉、貝製腕輪、貝製指輪などの装身具のほか、弥生土器なども出土した。これまでに保存状態の良好な人骨が300体以上出土している。人骨が出土した状態で保存された土井ヶ浜ドームと、土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムがある。JR山陰本線長門二見駅からブルーライン交通バス「土井ヶ浜」下車、徒歩約3分。

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改訂新版 世界大百科事典 「土井ヶ浜遺跡」の意味・わかりやすい解説

土井ヶ浜遺跡 (どいがはまいせき)

山口県下関市の旧豊北町神田上にある弥生時代前期および中期の墓地遺跡。国指定史跡。響灘沿岸の海岸平野に位置し,海岸線と直角方向に形成された風成砂丘上にある。1953-57年に発掘調査が行われ,80年以降も続行されている。今日までに出土した人骨は222体を数え,そのほとんどが前期に属している。遺骸は直接砂中に葬られたものが多く,なかには頭辺に屛風状に石を立てたもの,四隅に礫を配したもの,石囲いや箱式石棺中に葬られたものもある。副葬品として,釧(くしろ),指輪,小玉などの貝製品,碧玉製管玉,ガラス製小玉などの装身具がある。なお上層には,鏡,土器を含む古墳時代初頭の生活面が認められている。土井ヶ浜出土の人骨は,弥生時代前期の骨格として基本的なものであり,日本人種論考察の上に重要資料の一つである。また,遺骸の埋葬状況は,弥生前期の社会を考える上で重要視されている。
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百科事典マイペディア 「土井ヶ浜遺跡」の意味・わかりやすい解説

土井ヶ浜遺跡【どいがはまいせき】

山口県下関市豊北町,響灘に面する砂丘地帯に位置する弥生時代前期〜中期にかけての集団墓地遺跡で,国の史跡。1931年発見,その後幾度にもわたって発掘調査が行われ,様々な形態で埋葬された人骨が数多く発見された。土器や指輪など,副葬品と思われる装飾品も発掘されており,弥生時代の人々の営みを知る上で重要な遺跡と位置づけられる。研究拠点の人類学ミュージアムや展示施設〈土井ヶ浜ドーム〉がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土井ヶ浜遺跡」の意味・わかりやすい解説

土井ヶ浜遺跡
どいがはまいせき

山口県下関市北西部の砂丘上にある遺跡。弥生時代中期~古墳時代前期のもので,200体以上の弥生時代の人骨が発見され,地点により男女の性別比が異なること,さまざまな埋葬施設があること,抜歯の多いこと,貝製装身具が発見されることなど,多くの点で注目された。

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世界大百科事典(旧版)内の土井ヶ浜遺跡の言及

【鵜飼い】より

…鵜祭はこの古式を伝える神事ではないかと思われる。考古学遺物としては,山口県豊浦郡土井ヶ浜遺跡の弥生時代の集団墓地で出土した207体の人骨中に,1体だけウミウを抱いた女性人骨が発見されており,ウミウがなんらかの霊性を仮託されていた事実を示唆している。
【中国の鵜飼い】
 中国では,鵜はペリカンのことであって,鸕鷀(ろじ)がウに相当する。…

【山口[県]】より

…北は日本海に面して大陸に近く,南は瀬戸内海をひかえ,関門海峡を隔てて,古代文化の先進地北九州と相対しており,早くから大陸・九州と中央とを結ぶ交通上の要衝であった。弥生時代人骨を出土した土井ヶ浜遺跡,西日本最大級の弥生時代集落址として有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡の存在も,この地域の文化が先進的であったことを示している。《日本書紀》に見える仲哀天皇の穴門豊浦(あなととよら)宮は,大和朝廷による九州経略の基地となったところで,下関市長府の忌宮(いみのみや)神社境内がその故地と伝えられている。…

※「土井ヶ浜遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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