「日本書紀」天武天皇四年三月二日条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」、朱鳥元年(六八六)八月一三日条に「秦忌寸石勝を遣して、幣を土左大神に奉る」とみえる土左大神が当社の祭神をさすといわれ、土佐国造家が祀った神社とされる。
「土佐国風土記」逸文は「土左の郡。郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂の大社あり。其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に曰へらく、大穴六道尊のみ子、味高彦根尊なりといへり」と記し、祭神を一言主尊あるいは味高彦根尊としている。現在も祭神はこのいずれとも決められていないが、それはすでにこの頃にさかのぼる。ところで「釈日本紀」巻一二の雄略天皇の項に、葛城山における天皇と一言主神の出会い後のこととして「時神与天皇相競有不遜之言、天皇大瞋、奉移土左、神随而降、神身已隠、以祝代之、初至賀茂之地、後遷于此社、而高野天皇宝字八年、従五位上高賀茂朝臣田守等奏而奉迎鎮於葛城山東下高宮岡上、其和魂者猶留彼国、于今祭祀而云々」という説を紹介する。雄略天皇に対して不遜のあった一言主神を土佐に流したが、のちに迎えて「賀茂之地」に祀り、さらに「葛城山東下高宮岡上」の地に遷祀した。一方一言主神の和魂は土佐国にとどまり、今に祭祀されているという。葛城の一言主神の神話は「古事記」「日本書紀」にもみえるが、土佐国に流されたことはみえない。しかし「続日本紀」天平宝字八年(七六四)一一月七日条には
とみえ、大和葛上郡の高鴨神の鎮座由来を語るなかで、賀茂氏の先祖神が老夫の姿で雄略天皇と猟を争って土佐国に流されたが、のちに賀茂氏の先祖神であったことを知り大和葛上郡に迎え祀られた神であるとの話に転じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
高知市一宮しなねに鎮座。味鉏(あじすき)高彦根命をまつる。古くより,土佐にます神,土佐高賀茂大社,高賀茂大明神ともいわれてきた。《延喜式》神名帳には〈都佐坐神社〉と見えているが,859年(貞観1)従五位下,940年(天慶3)には正一位を授けられた。土佐国の一宮であった。1871年国幣中社。例祭は8月25日で,古式祭として由緒のある神幸神事,志那禰(しなね)祭が行われる。特殊神事も多く,1月15日の射初祭,1月16日の射揚祭,3月11~13日の斎籠(いごもり)祭,5月12日の御田祭,6月5日の兵燹(へいせん)祭などがある。現在の社殿は1570年(元亀1)長宗我部元親が再建したもので,本殿,幣殿,拝殿,鼓楼は重要文化財。
執筆者:落合 偉洲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
高知県高知市一の宮に鎮座。味鉏高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀(まつ)る。『日本書紀』に「土左大神(とさのおおかみ)」とみえ、古来より土佐高賀茂(たかかも)大社、高賀茂大明神とも称したという。『延喜式(えんぎしき)』神名帳には、名神(みょうじん)大社としてその名がみえ、940年(天慶3)には正一位となった。土佐一宮(いちのみや)。俗に志那禰(しなね)さまという。土佐国総鎮守として、とくに武門の崇敬厚く、長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)や山内一豊(やまうちかずとよ)が、本殿、幣殿、拝殿の再興や社領を免許した。1871年(明治4)国幣中社に列した。例祭は8月25日。3月11日より13日まで斎籠祭(いこもさい)が行われる。本殿、幣殿、拝殿、鼓楼(ころう)、楼門は国の重要文化財。古鏡(こきょう)、太刀(たち)、能面、鯰尾(ねんび)の鉾(ほこ)などの宝物がある。
[落合偉洲]
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