坂戸城跡(読み)さかどじようあと

日本歴史地名大系 「坂戸城跡」の解説

坂戸城跡
さかどじようあと

[現在地名]六日町坂戸

坂戸の集落東方、坂戸山(六三三・九メートル)山頂にある。坂戸山は三国みくに山脈の支脈である巻機まきはた山・割引わりびき岳・金城きんじよう山と続く北西に延びる尾根の先端にあたり、半独立の態をなす。東に五十沢いかさわ川・三国さくり川、西に魚野うおの川が流れ、地形は峻険である。魚野川対岸六日町には三国みくに街道、これから分岐する清水しみず道、八箇はつか峠越で十日町(現十日町市)へ出、それから府中ふちゆう(現上越市)へ通じる道が集中し、魚野川舟運の終点にもあたる。当城はこれら交通路を扼し、かつ魚野川、その支流ののぼり川・五十沢川・三国川に展開する上田うえだ庄一円を眼下におさめる位置にある。

本丸は約三八メートルに削平され、金城山に向かった尾根の一段高所に烽火台と最後の防御点詰ノ丸がある。北に延びる尾根には二ノ丸・三ノ丸が階段状をなし、さらにその下部に北出丸がある。六日町から見た正面の西側には上屋敷かみやしき中屋敷なかやしきがある。


坂戸城跡
さかどじようあと

[現在地名]岩瀬町西飯岡

西飯岡にしいいおか北西部のしろ山にある。二重の空堀、土塁が残り、北は険しい坂、西は断崖になる。応永三年(一三九六)に宇都宮氏の配下芳賀氏の一族小宅高国が当地に築城といわれる。永禄七年(一五六四)に小田氏治が当城を攻撃し、高国の子尚時らは高森たかもり原で迎撃したが敗れ、宇都宮広綱らの援軍の到着前に落城、尚時父子は小栗おぐり(現真壁郡協和町)へ落ちる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「坂戸城跡」の解説

さかどじょうあと【坂戸城跡】


新潟県南魚沼市坂戸にある城跡。城跡のある坂戸山(標高634m)は、魚沼盆地を流れる魚野(うおの)川と三国川の合流点に向かって半島状に突出し、北・東・西の三方は急峻で、西裾の魚野川が自然の防御線になっている。西麓の緩斜面地に城主の居館跡と家臣屋敷跡があり、東西110m、南北80mの城主居館跡には土塁がめぐり、とくに西側正面には高さ約2mの石垣がよく残っている。居館跡の南方、薬師尾根の中腹には「中屋敷」跡とされる東西40m、南北50mの区画があり、居館跡から東方、山上の尾根に向かう大手道を上った桃の木平には東西30m、南北120mの「上屋敷」跡がある。本丸跡のほか、山頂から西南に派生する尾根の標高500m付近に西の丸跡があるなど、これら城郭遺構は、基本的には上田長尾氏時代の後期、16世紀後半に完成したと推定されている。中世山城の典型的な姿をよくとどめていることから、1979年(昭和54)に国の史跡に指定された。JR上越線ほか六日町駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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