堀込村(読み)ほりごめむら

日本歴史地名大系 「堀込村」の解説

堀込村
ほりごめむら

[現在地名]足利市堀込町・西新井町にしあらいちよう中川町なかがわちよう

渡良瀬川の右岸の沖積地に位置し、対岸今福いまふく村。西端を矢場やば川が流れる。南部を例幣使街道が東西に走る。慶安郷帳では河内狭山藩領と旗本筒井領の二給。上野館林藩領を経て、天和二年(一六八二)旗本大岡・岩瀬・中山・能勢などの相給となるが(分郷配当帳)元禄郷帳では旗本岩瀬・土屋・中山・能勢・神谷の五給で、幕末に至る。


堀込村
ほりごめむら

[現在地名]清水市堀込

長崎ながさき新田の東、ともえ川中流右岸にあり、東は北脇きたわき村・能島のうじま村。永禄一二年(一五六九)正月二〇日の武田信玄判物写(諸家古文書写)に一〇貫文「万阿弥分堀籠」とみえ、今川家旧臣中山又六は戦死した父五郎左衛門の遺領である当地一〇貫文の地などの所領を安堵されている。慶長四年(一五九九)九月の横田村詮の浅間社領所付覚(志貴家文書)に「高百七拾八石壱斗三升 (有度)郡ほりこみ村」とみえ、駿府浅間神社神主に宛行われている。慶長一四年彦坂光正は当村外四ヵ村の荒地の開墾を「ろう人」に命じている(旧伴野家文書)


堀込村
ほりごめむら

[現在地名]長沼町堀込

南横田みなみよこた村の南、江花えばな川と川に挟まれた平地に立地。天正一八年(一五九〇)の検地目録(天栄村史)に「下村・堀米両村」とみえ、志茂しも村と一筆で記されている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「堀籠」とみえ、高四〇九石余、蒲生郷貞知行地。以後領主変遷は南横田村と同じ。白河古領村郷高帳では高四〇九石余。元禄四年(一六九一)の田地割換手形(広田家文書)によれば「一、此度御公儀様より縄引仕永代持仕様被仰付」と、農民の階層分化阻止のため土地の割換え(縄引)を実施している。


堀込村
ほりごめむら

[現在地名]坂戸市堀込

新堀にいほり村の西にあり、南はみね村。坂戸村越生おごせ(現越生町)を結ぶ道が通る。村名は堀籠・堀米とも書く。小田原衆所領役帳には松山衆太田十郎兵衛の所領として入西につさいの「堀籠」二七貫七七九文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には入間いるま郡入西領に属した(風土記稿)。田園簿では田九一石余・畑七〇石余、旗本多田領。


堀込村
ほりごめむら

[現在地名]毛呂山町岩井いわい

毛呂本郷もろほんごうの東、毛呂川右岸台地に立地。堀籠とも書く(風土記稿)。近世初めは毛呂村に含まれていたが、その後同村が分立して成立。元禄郷帳に「毛呂堀込村」とみえ、高一六一石余、国立史料館本元禄郷帳によると旗本河野・堀両氏の相給。両氏領となったのは宝暦六年(一七五六)とみられ(風土記稿)、幕末に至った(改革組合取調書など)


堀込村
ほりごめむら

[現在地名]下妻市堀籠ほりごめ

北は坂井さかい村・平沼ひらぬま新田。室町中期以降は多賀谷氏が支配し、慶長七年(一六〇二)以後は天領で、元禄郷帳の村高は一千七六石余。正徳三年(一七一三)の東当郷村明細帳(早川家文書)に滝野重右衛門代官所とあり、東当郷ひがしとうごう村の入作地が三〇〇石余あった。のち山城淀藩領となり、幕末は古料組が淀藩領分五九五石余、新料組が淀藩領分四四九石余、円明えんめい寺領三一石(各村旧高簿)


堀込村
ほりごめむら

[現在地名]二宮町堀込

いさはら村の南にあり、村のほぼ中央部を鬼怒川が南流し、集落はおもに同川左岸に発達した。永禄七年(一五六四)八月一〇日の結城晴朝宛行状(金剛院文書)に堀込村とみえる。文禄五年(一五九六)一月二〇日、結城秀康は結城領堀込村のうち高二〇石余の地を高椅たかはし神社(現小山市)に与えている(「結城秀康朱印状写」高椅神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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