報恩寺跡(読み)ほうおんじあと

日本歴史地名大系 「報恩寺跡」の解説

報恩寺跡
ほうおんじあと

[現在地名]日南市楠原

楠原くすばるの東端部、うわ城跡の北麓に位置し、現在寺跡に五百いおし神社が祀られている。天徳山と号し(日向国史)、臨済禅寺であった。飫肥藩主伊東氏の菩提寺で、飫肥領三大寺の一に数えられていた。江戸時代の寺域は東西一町四四間・南北三三間、西方、酒谷さかたに川を挟んだ対岸飫肥おび城下であった。天正一六年(一五八八)飫肥に入部した飫肥藩初代藩主伊東祐兵は、島津氏統治の時代から続く(永禄年間以前からという)禅通寺という寺院を廃し、その寺跡に当寺を創建したという(日向地誌)開山は雪山で、島津氏に敗れた祐兵の父義祐が、天正一三年泉州さかい(現大阪府堺市)の祐兵宅で病没したとき、日向国を出て遍参していた雪山が弔ったという(日向纂記)。また寺号は慶長五年(一六〇〇)に病没した開基祐兵の法名報恩寺殿心関宗安大禅定門によるものという(日向記)


報恩寺跡
ほうおんじあと

[現在地名]鎌倉市西御門一丁目

鶴岡八幡宮の北、現市立第二中学校付近に位置した。禅宗、南陽山報恩護国禅寺と号した。開山義堂周信、開基は関東管領上杉能憲。応安四年(一三七一)一〇月一五日の開創(「空華日用工夫略集」「報恩寺梁牌銘」など)

空華日用工夫略集」によれば、同年一〇月二一日に方丈の立柱・上棟が行われ、翌年六月に義堂周信が入寺、同年一一月に後山に住持の隠栖所として雲臥庵を構え、同六年一〇月には南軒に半雲亭と称する小亭を造立、永和二年(一三七六)一一月には仏殿の立柱が行われるなど、盛時の規模はかなり大きかったらしい。


報恩寺跡
ほうおんじあと

[現在地名]上野市比土 山ノ下

比地ひち神社と隣接して奥の院跡とも思われる一小宇が現存し、丘裾に来迎らいこう(天台真盛宗)がある。明徳二年(一三九一)の西大寺諸国末寺(奈良西大寺蔵)に載る報恩寺に比定され、小堂宇に藤原末期様式の阿弥陀如来坐像(一六七センチ)安置、堂前に十三重石塔の基礎石や残欠石造物が散在する。基礎石には「為光弥陀仏速悟天生乃至法界平等利益刻之、正応三三月 孝子平成季 大工南都友□」の文字が読める。友□が友安ならば、京都府加茂町西明さいみよう寺の永仁三年(一二九五)銘石仏塔に奈良元興がんごう極楽ごくらく坊の僧とともに名が刻されており、極楽坊は同じ西大寺末であるから、当寺との関係もうなずける。


報恩寺跡
ほうおんじあと

[現在地名]玉名市伊倉北方 本村

伊倉北いくらきた八幡宮の西隣にあった。中尾山福寿院と号し、真言宗。はじめは天台宗であったともいわれる。同宮の宮寺を勤めた。「国誌」によれば古くは中北帳なかきたちよう中尾小路なかおこうじの北八幡宮の内にあり、また中北帳村の項では初め本堂ほんどう山にあったと記される。延長二年(九二四)頼賀によって開かれたと伝え、定福坊・松林坊・浄然坊・明福坊・浄林坊・別当坊の六坊があった。のち禅宗に改めて河尻大慈かわしりだいじ(現熊本市)の末寺となり、伊倉五山の一に数えられた。永正年中(一五〇四―二一)には但馬守源常有、小森田三河守らによって再興されたが、天正一〇年(一五八二)一一月島津氏と龍造寺氏の合戦ですべて焼失したという。


報恩寺跡
ほうおんじあと

[現在地名]上県町志多留 法寺

大将軍だいじようぐ山の麓、千人せんにん塚に接した寺跡を法寺ほうじと称した。曹洞宗の報恩寺は廃寺となったが、土俗では報寺または法寺と略称したとされる(津島紀事)石積みの三界万霊塔があり、その奥の釈迦堂に安置される銅造釈迦如来像は総高五三・六センチの高麗仏で、火による損傷があるものの、品の良い顔立ちで、寺の本尊仏と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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