塙村(読み)はなわむら

日本歴史地名大系 「塙村」の解説

塙村
はなわむら

[現在地名]峰浜村塙

東に常盤ときわ(現能代市)石川いしかわ村、西に畠谷はたや村、南に強坂ごうざか村・小手萩こてはぎ村、北に水沢みずさわ村がある。村の大部分山地で、東北部の山地を水源とする塙川が村の中央を流れ、川に沿って支郷が点在する。

文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「三百七拾七石八斗九升 花輪村」とあり、享保一五年(一七三〇)の村名唱文字替覚(門間家文書)に「只今迄花輪村 塙村」とある。

寛永五年(一六二八)に益子助左衛門が梅津半右衛門から「塙村之内野谷地」の新開差紙を受け(塙部落文書)、下田源七が「大沢口新開」の差紙を受けている(適産調)。寛文四年(一六六四)の多賀谷左兵衛知行目録に本田高三五二石余、開高一七四石余とあり、塙村の大半は檜山ひやま多賀谷氏の知行地であった。

「六郡郡邑記」によれば、支郷に大沢おおさわ村・横内よこうち村・なか村・ヤイサノがあり、ヤイサノは「正徳元卯年花輪村より移る」とある。


塙村
はなわむら

[現在地名]飯岡町塙

三川さんがわ村の東、飯岡村の北にある広域の村。村の北部を多古銚子たこちようし道が通る。地名どおり付近一帯のなかでは高台にあり、伊達だてじようは海上氏の一族塙氏の居城と伝える伊達城跡とされる。堀切ほりきり木戸脇きどわき竜塚りようづか宿しゆくうち馬内うまうち駒込こまごめなど関連をうかがわせる地名が残る。天正一八年(一五九〇)木曾義昌領になり、慶長一八年(一六一三)の木曾氏旧領書上(岩井家文書)に村名がみえ、高四八五石余。


塙村
はなわむら

[現在地名]益子町塙

東は南流する小貝こかい川を隔てて益子村・なか村、西は清水しみず(現真岡市)、南は東田井ひがしだい村。永享七年(一四三五)五月三日の足利持氏御教書(塙文書)によれば、大内おおうち庄東田井郷の隣郷に居住する塙信濃入道が、東田井郷に対して用水を止めるなど乱暴狼藉を働いた。塙信濃入道はおそらく東田井郷への幣物賦課をめぐって常陸鹿島社と対立していた宇都宮氏方の人物で、鹿島社の訴えで関東府により追放が命じられている。慶安郷帳に「墫村」とみえ、田二二九石余・畑二三一石余。相模小田原藩領。天明三年(一七八三)から幕府領となる。なお当村北部星の宮ほしのみや坪は星の宮村として独立していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)に当村に合併したともされるが(地誌取調)、不明。


塙村
はなわむら

[現在地名]塙町塙

現塙町のほぼ中央、久慈くじ川東岸の平地と段丘に立地。地内で阿武隈高地に源を発する川上かわかみ川・渡瀬わたらせ川が合流する。中世、羽黒はぐろ山に佐竹氏一族大塚氏が拠ったという羽黒城(館)が築かれていた(白河古事考)

寛永二一年(一六四四)の免状(福島県史)によれば、村高のうち田七七石余、うち川成分一九石余・名主(秦氏)扶持五石・日損分五石を引き残高四七石余、免四ツ八分。畑一五九石余、うち諸引分六石余、残高一五二石余(うち城山分一五石余・本郷分一三七石余)、年貢金二八両三分余。正保郷帳でも田七七石余・畑一五九石余。


塙村
はなわむら

[現在地名]阿見町塙

清明せいめい川の沿岸にあり、北は追原おつぱら村。中世は信太しだ庄に属し、嘉暦四年(一三二九)五月四日の表書のある越後左衛門大夫将監請文(東寺百合文書)に「常陸国信太庄雑掌定祐申塙郷以下年貢之由事」とある。永享七年(一四三五)の富有注文(続常陸遺文)には「一、塙郷 常祐入道」とある。字たてに城跡が存在し、その北西にあたる字東観山とうかんざんにもと蔵福ぞうふく寺があったと伝えられる。

天正一八年(一五九〇)に蘆名氏領、のち天領となり、元禄郷帳の村高は三二二石余。寛文年間(一六六一―七三)上条じようじよう下谷地しもやじの開発を争ったが敗れ(「上谷地・下谷地野論裁許状」大越家文書)、天保期(一八三〇―四四)に再燃した時は村方騒動まで起こったが、安政六年(一八五九)村請新田とすることに成功した(「下谷地一件利兵衛組百姓差出し一札」栗山家文書)


塙村
はなわむら

[現在地名]南那須町三箇さんが

上川井かみかわい村の南、南東流するあら川左岸に位置する。東は西戸田にしとだ村。正和元年(一三一二)九月一〇日の関東御教書(写、鶴岡神主家伝文書)で下野国森田もりた郷「鼻和」村のうち「堀内并田畠豊田五郎四郎幹行跡」などが、周防左近将監久方跡などの不足分として鎌倉鶴岡八幡宮神主時綱に与えられた。慶安郷帳では田高二八八石余・畑高三三二石余。元禄郷帳では宇都宮藩領、旗本榊原・小林・下島・福島の五給。改革組合村では旗本榊原・下島・小林の三給、家数五一。旧高旧領取調帳では前出旗本各領と幕府領の四給。天保飢饉の渦中、農村の荒廃に対処するため、当村に所領のあった旗本榊原家では家政の仕法替えが行われた。


塙村
はなわむら

[現在地名]大野村かず

台地上にあり、北西は武井たけい村、東は春秋はるあき村。応永二四年(一四一七)二月二四日の大宮司中臣則隆起請文(根本寺文書)に「鹿嶋郡棚木鼻和村事、雖社家還補十九ケ条之内候、任佐々木方約諾状之旨返申候」とある。また年未詳の鹿島大宮司方打渡所々等注文(鹿島神宮文書)にも「棚木・塙両村事」とある。さらに宝徳元年(一四四九)一一月二七日の大宮司中臣則広願文(同文書)には「当社大神宮三月廿一日御祭礼事、右之社領塙之郷」とある。中世は常陸大掾氏の一族鹿島氏の庶子が塙氏を称して支配し、赤山あかやまに館を築いて居住した(茨城県史料)。天正一九年(一五九一)東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「四百四石参斗仁升 はなわ」とある。


塙村
はなわむら

[現在地名]鹿島町下塙しもはなわ

鹿島台地の南端、堀割ほりわり川北岸にあり、東は佐田さた村。応永二三年(一四一六)一一月一五日の前大宮司中臣則密譲状(鹿島神宮文書)に「塙」とみえる。正保年間(一六四四―四八)までは佐田村の内にあったが、以後分村し(新編常陸国誌)、元禄郷帳の村高は二九〇石余。


塙村
はなわむら

[現在地名]大子町塙

おし川の支谷久保田くぼた川流域にあり、東北部は芦野倉あしのくら村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「塙村」とみえる。村の南下塙しもはなわの高台に北条伊賀守の居館と伝える館跡があり、「水府志料」に「其地、今荒蕪となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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