三世一身法の後を受けて、20年後の743年(天平15)に発布された古代の土地法。三世一身法に存した三世とか一身とかの占有期間の制限を外し、墾田は永久に私有地とすることを認め、ただその面積に位階による制限(一品(ぽん)および一位の500町から無位の10町まで)を設けた。このように三世一身法と違って律令(りつりょう)土地法の理念と根本的に反する法が出された背景には、当時左大臣に昇任したばかりの橘諸兄(たちばなのもろえ)の政策的意図があったとみられる。ただし結果的には、開墾限度額を設定して律令土地法の欠落部分を補完したという一面をももっていた。班田収授法は依然として既墾地で行われ、この法は新規の開墾地でのみ通用するわけであるから、両者は共存しうるものではあったが、水田の永久私有が公然と認められた以上、貴族、地方豪族、社寺の土地私有の動きはにわかに活発となり、荘園(しょうえん)制成立の大きな原因となるとともに、他方、班田収授法崩壊の原因ともなった。なおこの法の発布によって、これまでの田主権の有無を指標とする律令法本来の公田・私田概念は退行し、かわって永代私有権の有無を指標とする公田・私田概念が生み出され一般化するに至った。道鏡(どうきょう)政権下の765年(天平神護1)に、寺院の継続的な開墾と現地農民の小規模な開墾を除くほかの、いっさいの開墾を禁止したことがあるが、道鏡失脚後の772年(宝亀3)に旧に復し、以後変わることはなかった。
[虎尾俊哉]
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743年(天平15)5月27日に発布された,墾田の永久私有を認めた勅。三世一身(さんぜいっしん)の法による墾田収公の廃止,身分位階による墾田所有額の制限,国司在任中の開墾田の任期終了後の収公,開墾申請手続とその有効期限あるいは注意事項などを定めた。日本の律令制では墾田についての規定がなかったので,中国の均田制にならって,未墾地をも既墾地同様,国家によって掌握しようと意図したもの。765年(天平神護元)にいったん廃止されたが,772年(宝亀3)には再び開墾が許可された。この頃開墾制限額は撤廃されたらしく,以後長く墾田の田主権を主張する際の法的根拠としての役割をはたした。
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