日本大百科全書(ニッポニカ) 「三世一身法」の意味・わかりやすい解説
三世一身法(さんぜいいっしんのほう)
さんぜいいっしんのほう
723年(養老7)4月に発令された開墾奨励法。新たに溝や池などの灌漑(かんがい)設備をつくって開墾した者には三世(子、孫、曽孫(そうそん))に至るまでの間、また従来からあった灌漑設備を利用して開墾した者には本人一代限り、その墾田の保有を認めるという内容である。
これは律令(りつりょう)の公地主義の原則からそれほど大幅に逸脱したとはいいきれない。三世田は上功田、また一身田は口分田(くぶんでん)と同じ取り扱いにすぎないからである。しかし、大化改新以来抑えられていた貴族・豪族の土地私有欲は、この法令の発布を機として一挙に表面化し、律令の土地制度を傾斜させる端緒となった。この法令の文面においては、人口の増加に対する耕地の不足ということが発令の理由としてあげられているが、これより3年前の720年に藤原不比等(ふひと)が死に、またその後を受けて右大臣になった皇親勢力の最後のチャンピオンともいうべき長屋王(ながやおう)が、わずか2か月前に左大臣に昇任していることを考えあわせると、むしろ保守的な貴族層の歓心を買うための政策とみるべきふしがある。実際に開墾(ことに三世田の開墾)を行うだけの資力をもつ者は貴族、豪族、寺院などに限られていたからである。なお、この法の発布された前年に、政府事業としての良田百万町開墾計画が発表されているが、両者の関係については、かならずしも明確ではない。
[虎尾俊哉]