堺利彦設立の代筆業兼出版社。堺は1910年赤旗事件の刑期を終えて出獄した際,大逆事件の弾圧下で生活難にあえぐ社会主義者たちを支えるために売文社を創立した。彼は雌伏の時期にここにたてこもり〈文を売って口を糊するにまた何のはばかるところあらん〉と広告して,幸徳秋水亡きのち社会主義運動の中心的役割をめざした。当初は原稿製作,翻訳,諸文章の代筆を主とし,のち雑誌書籍の出版を兼ねた。大杉栄,荒畑寒村,岡野辰之助,高畠素之らが仕事をし,東京市内に居を転々としながら繁盛した。14年1月《へちまの花》を発刊し,まず文芸娯楽物を中心に多少社会主義的色彩も加えたものを機関誌とした。翌年9月に改題して月刊誌《新社会》とし,巻頭に〈小さき旗上げ〉の言葉を掲げ,当時社会主義者の唯一の機関誌としてその思想の啓蒙を再開した。16年には5年ぶりに山川均も岡山から上京してその執筆陣に加わり,社会主義者のたまり場となった。17年4月の衆議院選挙に際しては堺がここを事務所として立候補し,同志とともに選挙活動を行ったが得票24票で落選した。
〈冬の時代〉の下,社会主義勢力の確保に努めた点は高く評価される。だがすべての社会主義者がここに集まったわけではなく,石川三四郎のように批判的人物もいた。やがて売文社内で思想対立がおこり,高畠は国家社会主義の立場を鮮明にして離れ,19年3月売文社は解散した。高畠は《国家社会主義》を同年4月創刊し,売文社を再興したが,同年8月号で廃刊された。《新社会》は堺らによって発行所を変えながら20年1月まで続き,《新社会評論》さらに《社会主義》と改題されて翌年9月まで発行された。
執筆者:橋本 哲哉
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堺利彦(さかいとしひこ)が大逆(たいぎゃく)事件後の「冬の時代」下、逼塞(ひっそく)した社会主義者を糾合し、生活を保持するとともに運動の火種を守り再建の拠点とした一種の代筆屋。1910年(明治43)12月末に東京・四谷(よつや)に開業、翻訳から卒業論文の代作、祝辞、広告文、手紙の代筆まであらゆる売文を業とし、身の上相談のはしりといわれる浮世顧問の看板を掲げ、有楽(ゆうらく)町に進出するほど繁盛した。大杉栄(さかえ)、荒畑寒村(かんそん)、高畠素之(たかばたけもとゆき)、山川均(ひとし)らを社員とし、特約執筆家として上司小剣(かみつかさしょうけん)や土岐善麿(ときぜんまろ)、江渡狄嶺(えとてきれい)らを擁した。14年(大正3)1月営業案内を兼ねて『へちまの花』を創刊、軽妙ながら風刺のきいた文章を載せて時機をうかがい、15年9月『新社会』と改題、社会主義運動の「小さき旗上げ」を行う。欧米の運動の紹介や社会主義思想の啓蒙(けいもう)的普及に努めるが、国家社会主義に近づいた高畠、遠藤友四郎らが堺らと対立、19年3月社を解散する。名義は高畠が引き継いだが、まもなく自然消滅した。
[荻野富士夫]
『荻野富士夫「〈冬の時代〉前半の堺利彦」(『日本歴史』360号所収・1978年5月・吉川弘文館)』
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