大井城跡(読み)おおいじようあと

日本歴史地名大系 「大井城跡」の解説

大井城跡
おおいじようあと

[現在地名]佐久岩村田 古城

岩村田いわむらだ町の東北、東は川の断崖で自然の要害をなす平城で、南から黒岩くろいわ城・おう城・石並いならび城があり、三城合わせて大井城または岩村田館とよばれ。長野県史跡。現在は西側に空堀跡、東西に横切る堀切をわずかに残すのみ。中世を通じて佐久の東部を中心に勢力を振るった大井氏宗家、のちにその支族の本拠地。

信濃国の守護小笠原長清の七男朝光が定住して大井氏を称す。「四鄰譚藪」に「朝光も大井に入部あり、いくほとなく嘉禄元年三月十九日、於岩村田館卒せらる」とあるが、岩村田館がこの大井城跡であったかどうかは明らかでない。


大井城跡
おおいじようあと

[現在地名]恵那市大井町

現在の市立大井小学校および県立恵那高校付近と野畑の城の欠のばたのしろのかけ付近を跡地とする。小学校から高校にかけては阿木あぎ川沿いの平地から一〇―一五メートル高い段丘となり、ここに本城があったというが、じよう城が丘じようがおかといった地名以外は残らない。城の欠は本城の北方八〇〇メートルにあり、ここも平地からの比高約一三メートルの段丘上である。砦跡といわれ、鷹撃谷築たかちかやのこやの名があり、石垣・土塁・土台石・堀跡などが残る。当地は美濃と信濃との勢力の接点にあたっていた。応仁の乱の頃、大井城には土岐氏一族の大井遠江守行秀がいたと思われる(土岐系図など)


大井城跡
おおいじようあと

[現在地名]久美浜町字大井

しろ山は大井の南方壱分いちぶとの境にある。城跡には四方に道があり、城坂しろざか荒神坂こうじんざかなどの名称がある。牧左京進の居城であったが、天正一〇年(一五八二)松井康之の軍によって落城したと伝える(熊野郡誌)

大井城は壱分側からは一分城とよばれてきたが、「一色軍記」は「大井城牧左京進」「一分城氏家大和守」と別個に記す。永禄元亀天正頃一色家諸将地侍居城図(「田辺旧記」所引)には「一分、氏家大和守」とのみ記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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