日本の古代~近世における田畠,屋地などからの収納物の名称の一つ。時代の推移,制度の変化により,その内容にはかなり差異が見られる。
古代律令国家の土地国有制の下では,田地は輸租田,不輸租田,輸地子田に区別されていた。《延喜式》主税式の定めるところでは,位田・職田(しきでん)・国造田・采女(うねめ)田・膂力婦女田・賜田等の未授の間,および遥授国司公廨田(くがいでん)・没官田・出家得度田・逃亡除帳口分田・乗田(じようでん)が輸地子田とされている。乗田(口分田として班給した残りの田地のことで公田ともいう)についてみると,国家はこれを賃租に出し,一定の賃租料を収入としたのであり,《令義解》の田令公田条によれば賃は乗田を1年を限って売り,春にその値をとることを称し,租は人に与えて耕作させ,秋に稲を輸さしめるものであって,この輸稲を地子というと記されている。すなわち律令制下の地子とは,租の方式によって田地を借耕した農民が,秋に国家に差し出す稲のことであった。《延喜式》主税式では,公田の標準獲稲は上田500束,中田400束,下田300束,下下田150束であり,地子は田品にしたがって獲稲の5分の1を輸するものとされ,当時の地子の割合が知られる。
平安時代に入ると,律令国家の土地制度が目だって崩壊の過程をたどり,荘園制が発達するが,そこでは荘園領主が荘田を有力農民である田堵(たと)らに請作(うけさく)させる方式がとられた。これを荘園領主の立場から散田(さんでん)と称し,これに対して田堵らは請文(うけぶみ)を提出し,収穫のうち一定額を上進する義務を負ったが,この上納分が地子と称された。実質的に荘園と類似の内容を持つに至った国衙領の場合も同様であった。平安末期,荘園の土地が名(みよう)に編成されるようになって以後は,名主(みようしゆ)を負担者として名田に賦課される正租を一般に年貢というようになるのに対して,名田以外の領主直属地(これを間田(かんでん),余田,散田あるいは一色田(いつしきでん)などと称した)を作人に耕作させ,そこから収取するものをふつう地子と呼んだ。
一方,中世では地子といえば畠租を指す場合が多い。律令制の下では元来畠地は公的な賦課の対象ではなく,私的用益にゆだねられていたが,早くも平安初期には〈畠地子〉の名称が現れている。844年(承和11)10月11日付で出された阿波国牒が,東大寺に対し来年以降新嶋地,大豆津圃,勝野郡地等合わせて53町歩余からの畠地子勘徴を認めているのはその例である。980年(天元3)2月2日の某寺資財帳には〈広幡畠三段(地子)〉などと見える。11世紀半ばごろ以後は国衙領,荘園とも畠地検注が通例となり,畠地子徴収は一般的となった。田租が通常米で徴収されたのに対して,畠地子は米の場合ももちろん多かったが,たとえば1150年(久安6)12月23日の佐伯佐長譲状所載の菩提寺領の畠からは〈ちし(地子)のむき(麦),たんへち(反別)にいといせう,まめ・あつき(小豆)いと一升〉が年々弁済されている。また1160年(永暦1)12月の伊予国弓削荘田畠検注帳によると,定得畠8町5反余に対して〈所当御油四斗二升八合八夕〉が賦課されているなど,種々の畠作物やその代納物が徴収されることが多く,1306年(徳治1)2月の山城国池田荘田畠検注目録案に〈一,畠柒町玖段廿,分地子壱貫伍百捌拾文(段別弐拾文)〉と見えるように銭納される場合もあった。
地子はまた屋地子と称して,市街地・宅地から徴する地代をも指した。《園太暦》に載せる1352年(正平7・文和1)2月23日の後村上天皇綸旨が〈洛中民屋地子〉の停止を命じているのは一例である。このほか地子はその徴収の時期によって春地子,夏地子,秋地子,冬地子などの名称で呼ばれることがしばしばある。さらに領主の収納分のほかに中間所得としての名主取分が成立するようになると,領主収納分を本地子,定地子などといい,名主取分を加地子と称して両者が区別されることにもなった。たとえば1395年(応永2)12月の東寺会中講料所敷地注文に載せる京都七条の敷地一所の地子550文の内訳が〈此内加地子百五十文出之,定地子四百文夏冬弁〉と見えるごとくである。
→地子田
執筆者:須磨 千穎
近世における地子とは,国家や領主権力により主として家屋敷に対して賦課された年貢の一形態,特殊な貨幣地代である。近世の百姓・町人・諸職人・被差別民等の被支配諸身分は,年貢・諸役と総称される多様な諸負担を,国家や領主権力から課されていた。それらは,諸身分のそれぞれの存在形態や身分内諸階層の状況に応じた,賦課の対象・方法に基づいて徴収された。このうち,賦課対象および基準としては,(1)人身ないしは家,(2)土地ないしは占有された大地,(3)労働・生産・交通・営業の手段および用具等があげられる。土地ないしは占有された大地は,近世においては田畑家屋敷と総称され,これへの賦課は,土地の用益方法により,農地としての田畑と,宅地としての家屋敷に二分された。田畑・家屋敷は,原則的にはいずれも米の年間生産高=石高に結ばれた。多くの村落では,土地の総面積に占める家屋敷の比重がきわめて小さいために,家屋敷の年貢はそれ自体独自の負担として認識されにくい特質を持つことになった。
しかし,土地の大半が家屋敷のみで構成されている町方=都市域の場合,村落に模して石高に基づく年貢を課しても,個々の土地片が細分化された狭小なものであり,また貨幣形態で徴収せざるをえないために,家屋敷の年貢は田畑の年貢とは独自の負担=地子として観念されることになった。こうして町方の地子は相対的に軽微な負担にとどまることになり,近世初頭から三都・城下町や門前町・宿駅・港町・鉱山町等の多くの町方で,その全域,あるいは一部が地子免許という形で無年貢地化された。こうして近世の町人をはじめとする町方居住の家持ちの負担は,もっぱら人身ないしは家を対象とした労働の奉仕=人足役に限定されることになり,百姓等の負担とはまったく異なる相貌を呈することになった。類語に地代(じだい)があるが,これはおもに家屋敷の借地料を意味し,地子とは異なる。
執筆者:吉田 伸之
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田畑などの耕地、および屋敷などの賃貸料として課せられるもので、律令制(りつりょうせい)以来、1873年(明治6)の地租改正に至るまで行われた前近代的地代の一つ。時代により内容、性格に変化がある。律令制下では公田(こうでん)(口分田(くぶんでん)を班給した残りの田地=乗田(じょうでん)や、寺神田など)は、1年を期限として農民に小作させることを許し、春の耕種前に賃貸料として官に納めるものを賃(ちん)といい、秋の収穫時に出す場合を租(そ)と称し、この賃租の料米を地子と称した。いずれも収穫の5分の1が定額であった。8世紀にはこのような公田で賃租を行い地子を給する田地を輸地子田(ゆじしでん)とよび、『延喜式(えんぎしき)』では、位田(いでん)、職田(しきでん)、国造田(こくぞうでん)など数種の田地が指定された。畑地は律令制では租徴収の対象に入らなかったが、719年(養老3)に地子粟反別3升を収取することが定められ、麦、大豆、ソバなどで徴収された。また在地の私領主が私領の農民から請作(うけさく)料として、反別1~3斗ぐらいの米を徴取することが慣例化し、荘園(しょうえん)年貢、地子と区別してこれを加地子(かじし)とよんだ。14世紀以降では市街地の宅地税を屋地子(やじし)といい、銭貨で徴収したので地子銭(じしせん)と称したが、戦国期以来、地子はほとんど宅地に課するものに限られるようになった。
[島田次郎]
近代以前に土地から収取された年貢などをいう。(1)古代では公田の賃借料をさし,平安時代の荘園公領体制においては,田堵(たと)が請作(うけさく)の代償として納める義務を負った。(2)平安末~鎌倉時代の名田体制下では,名田から収取される年貢・公事(くじ)以外の収取物を地子と総称したが,畠地子・屋地子など田以外の土地である畠・屋敷地からの収取物をさす場合もあった。平安末期以降,土地に対する権利の重層化・細分化が進展するにつれ,領主と作人の間に多様な中間得分が発生した。名主が集積したこれらの得分は加地子とよばれ,本来の領主の得分を本地子・定地子とよぶようになる。(3)中世末以降,都市域において宅地(町屋敷)に賦課される年貢(敷地年貢)を屋地子,地子とよぶようになり,近世ではほぼこの用法に限定された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…時代の推移,制度の変化により,その内容にはかなり差異が見られる。
[古代,中世]
古代律令国家の土地国有制の下では,田地は輸租田,不輸租田,輸地子田に区別されていた。《延喜式》主税式の定めるところでは,位田・職田(しきでん)・国造田・采女(うねめ)田・膂力婦女田・賜田等の未授の間,および遥授国司公廨田(くがいでん)・没官田・出家得度田・逃亡除帳口分田・乗田(じようでん)が輸地子田とされている。…
…農民が国衙や荘園領主から公領・荘園の田地のあてがいをうけて耕作すること。9世紀後半から10世紀にかけて,国家の営田や荘園において,いわゆる地子田経営がおこなわれるようになる。これは当時〈力田之輩〉とか〈有能借佃者〉〈堪百姓〉などと呼ばれる有力農民=田堵(たと)の成長が見られたのに応じて,律令国家・国衙や荘園領主が彼らに田地を割り当てて耕営せしめ,地子(じし)を弁進させた経営方式である。…
…この年貢部分は多くの領主にとって米であるが,たとえば長州藩では紙も重要な現銀収入の資となっている。このような蔵物の換貨と必要物資の供給者として三都や城下町その他の商人が必要であり,彼らは町造営の初期には地子免除の特権などを与えて領内から招致している。また領主層の広範な需要を満たすために,各種の加工業に従事する職人層も町に集められ,城下町には各種の職人町がつくられた。…
…日本古代および中世において地子という名目で収穫の一部が耕作料として支払われ耕作されていた田地のことをいう。《延喜式》では〈位田,職田,国造田,采女田,膂力婦女田,賜田等未授の間,および遥授国司公廨田,没官田,出家得度田,逃亡除帳口分田,乗田〉が輸地子田と定められている。…
…こうした町名をもつ町の場合,同業者が集住していたというだけでなく,近世初頭に城下町ができたとき,領主側の必要によってつくられたのである。領主側は町人町に対しては農村とちがって年貢をとることなく,地子免除にしている例が多く,その代りに町々は人足役や伝馬役,そして領主御用の負担を課される。城下町がつくられたときに,職人や商人への統制を強め,御用の負担をさせるために計画的に町人町をつくったのである。…
※「地子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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