大島郷
おおじまごう
[現在地名]松川町元大島一帯
古代末から中世の郷。江戸時代の地方旧記(伊那温知集)では郡戸庄に属すると記されているが、諏訪社上社の造営の工を分担して寄進した嘉暦四年(一三二九)三月の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)の「伊那郡」に、
<資料は省略されています>
とみえ、郡戸庄とは別に大島・片切・名子が列記されている。従って、大島郷は郡戸庄ではなく春近領に属していたと思われる。
大島郷は大島氏の本郷で、現在の古町が中心であり、これに上新井・福与・部奈・片桐のうち小和田が入る。
大島郷
おおしまごう
「和名抄」高山寺本は「大嶋」と記して「於保之末」と読み、同書伊勢本・東急本は同様に記して「於保之万」と読む。同書名博本は「ヲホシマ」と訓を付す。当郷について「阿府志」が「穴吹拝村一県ナリ」として吉野川南岸の下流部分、穴吹川流域に比定しているのに対し、「阿波志」は「重清郡里等其地也」として吉野川北岸上流部分に比定している。近代になり「大日本地名辞書」は吉野川北岸の現脇町脇町・岩倉と対岸の現穴吹町三島にまたがらせて比定しており、旧三島村の小島は大島の訛であるとしている。
大島郷
おおしまごう
下総国葛飾郡所属の郷。「大嶋郷」と表記される。正倉院文書中に下総国葛飾郡大島郷戸籍がみえる。「和名抄」所載の葛飾郡の郷名中にみえる八島郷は大島郷の誤記と考えられている。養老五年(七二一)に作成された大島郷戸籍から甲和里・仲村里および島俣里からなっていたことが知られる。甲和が転訛して小岩となり、島俣の転訛が柴又と考えられており、甲和里は現江戸川区小岩、島俣里は現葛飾区柴又に比定されている。
大島郷
おおしまごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。「大日本地名辞書」は現在の気仙郡三陸町および釜石市唐丹町の地域、すなわちかつての奥浜四ヵ村(旧気仙郡綾里村・越喜来村・吉浜村・唐丹村)の地とする。「延喜式」神名帳にみえる陸奥国桃生郡(現宮城県)六座のうちの計仙麻大島神社所在地とされる近世の本吉郡大島村(現宮城県気仙沼市)を当郷の比定地とする説もあるが、「日本地理志料」は否定している。
大島郷
おおしまごう
「和名抄」は諸本とも訓を欠く。郷名は古代文献にみえないが、建保四年(一二一六)一〇月一〇日の僧増弁処分状(長命寺文書)に、増弁が山門住僧に処分した田地一段は「蒲生下郡大島郷」にあったといい、また弘安五年(一二八二)六月の増慶田地寄進状(同文書)にも「蒲生下郡大島郷」の記載がある。郷名は、中世史料ではあるが、弘長四年(一二六四)一月一四日の経賢奉書(同文書)に「島郷所当米」を長命寺(現近江八幡市)常灯用途米に募ったといい、大島神を「島神」(「三代実録」貞観七年四月二日条)という例と合せて、島郷と表記することがあったのかもしれない。
大島郷
おおしまごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。東急本は嶋につくる。「会津地名考」は「会津郡大島村其遺名ノ存スル也」とする。「会津風土記」の門田庄に大島がみえ、「日本地理志料」はこれを遺名とし、現会津若松市街地の東部・南部をあげる。「大日本地名辞書」は現河沼郡会津坂下町の金上・広瀬地区および現同郡湯川村の勝常地区の一部とする。近世の大島村は現北会津郡北会津村の川南地区にあり、これが「会津地名考」の指摘する遺称地である。
大島郷
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「和名抄」高山寺本に「於保之末」、東急本に「於保之万」の訓がある。現笠岡市大島中・西大島を中心とする地域に比定される。西大島に津雲貝塚がある。縄文時代の大半の期間にわたる遺物が出土しているが、中心は後期・晩期で、約一七〇体の人骨が発見されており、当時の埋葬様式や成人骨の抜歯の風習などの貴重な事実が明らかにされた。
大島郷
おおしまごう
「和名抄」東急本は「大嶋」につくり、高山寺本とともに訓を欠く。「日本地理志料」は「於保之万」と訓を付す。「大同類聚方」に「大島薬、鎌倉郡大島里ノ人ノ伝フル方」とあり、当地に伝わっていた薬の処方であろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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