松川町
まつかわまち
面積:七二・六二平方キロ
下伊那郡最北端の町で、北は前沢川を郡境として上伊那郡飯島町と小渋川を郡境として上伊那郡中川村に接する。東は伊那山脈を境に大鹿村、南は大沢川を境に高森町、間沢川を境に豊丘村、西は木曾山脈(中央アルプス)を境に木曾郡大桑村に接する。
町のほぼ中央を天竜川が流れ、天竜川を挟んで竜東地区と竜西地区に区分される。竜西地区は伊那谷特有の河岸段丘が展開しており、段丘上の平坦地は主として水田・桑園・普通畑が多く、上段の洪積地は近時果樹栽培が著しく発達し気象条件もよく二十世紀梨の主要産地として知られる。
松川町
まつかわちよう
[現在地名]函館市松川町など
昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、万代町の東に位置する。それまでの函館区大字亀田村字村内の一部に海岸町・大縄町の一部を加えて松川町とした(函館市字地番改正調書)。町域には五稜郭築造の際に箱館湊から資材を運ぶ道路(通称松川街道)が整備されており、町名はこの工事を担当した松川弁之助からの命名。昭和二四年に市内初の鉄筋コンクリート造の市営住宅が建てられ、同二六年までに七二戸が完成。同三〇年の国勢調査では世帯数一千六八七・人口八千一九二、就業人口比で製造業関係者が二九パーセント、運輸関係者が二一パーセントを占めていた。
松川町
まつかわちよう
東西に通る松原通(旧五条大路)を挟む両側町。中央を南北に河原町通が通る。
平安京では京域外で、崇親院領となっていた。平安末に崇親院が荒廃して後も、清水寺(現東山区)への参詣路として比較的早く開けたと思われる。
天正一九年(一五九一)、豊臣秀吉により市中に御土居がめぐらされたが、当町北東部にも築かれている。
寛文一二年(一六七二)洛中洛外大図で「志水丁」、宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図でも「清水丁」とあり松川町は独立していない。「月堂見聞集」享保九年の冬に「松原通寺町東入町、唯今迄は四方の地尻にて事済候処に、今度別々町と成松川町と申候」とあり、この年に独立、町名もこれ以来と思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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