寺伝に親忠は菩提寺として大樹寺を創建したとある。永正一〇年(一五一三)の勢誉、道閲(松平長親、親忠の子)、道忠(同信忠、長親の子)連署の式定(当寺文書)に「右当寺大樹者大檀那松平前京兆親忠公法名大胤西忠与勢誉以同志為開基処之一宇也、已経三十回不退転行学焉」とあるところからみて文明七年からほど遠からぬ年に創建されたとみられる。同一七年三月の松平大炊助正則の寄進状(同文書)に、
とあるのが寺名の初出である。
現寺域にかかわる最初の文書は「北鴨田のりかね名田壱町并屋敷」を寄進した長享三年(一四八九)正月二五日の親忠の文書である。寺号の大樹は将軍の唐名であり、新興の国人である松平氏の菩提寺に使用されるのは異例の観がある。寺伝では子孫が将軍になることを願って勢誉が命名したというが、釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとみられる。親忠を初代とする安城松平家が一六世紀前半に松平一族の惣領となったことにより、大樹寺は松平宗家の菩提寺となり、宗家代々や一族・家臣からの寺領寄進が多かった。三河一国をほぼ支配下に収めたとされる松平七代清康は、天文四年(一五三五)に本堂・多宝塔などを造営。多宝塔身柱の銘文に「于時天文四年乙未卯月廿九日午時身柱立(中略)奉為逆修、万疋奉加、大檀那世良田次郎三郎清康、安城四代岡崎殿」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
愛知県岡崎市にある浄土宗の寺。成道山松安院と号する。徳川家康6世の祖である松平氏第4代親忠は,戦死者の亡魂の叫喚の声に日夜悩まされたが,後に知恩院23世の法統をついだ勢誉愚底の7日7夜の念仏に救われ,1475年(文明7)愚底を開山として当寺を建立,以後松平氏8代の菩提所となった。このとき浄土宗の信仰の要(かなめ)を在家に伝える五重相伝(ごじゆうそうでん)を初めて親忠に授けたことから,結縁五重(けちえんごじゆう)の根本道場として知られる。また後奈良天皇より勅額も授けられている。1560年(永禄3)桶狭間の戦のとき,大樹寺に難を逃れた徳川家康を,大樹寺13世の登誉天室が戒めて自害をとどまらせ,怪力祖洞和尚が寺域をとり囲んだ織田の軍勢を貫木(かんぬき)を振りまわして退却せしめた。家康の自害を救った〈厭離穢土(えんりえど)・欣求浄土(ごんぐじようど)〉の8文字は,家康の座右の銘となり,戦陣の旗印ともなった。また難を救った貫木は〈貫木神(かんぬきじん)〉としてあがめ,当寺の什宝となっている。徳川家光は1638年(寛永15)に総門を建造し,41年には3年の歳月をかけて諸堂宇を再建したが,1855年(安政2)火災で多宝塔,山門,鐘楼など孤立した建物を除いて焼失,57年再建された。1535年松平7代清康が建立した多宝塔と幕末の勤王画家冷泉為恭(れいぜいためちか)の描いた146面の大方丈襖絵,絹本墨画淡彩如意輪観音図(鎌倉時代)は重要文化財。家康の遺命によって歴代将軍の等身大の位牌が安置されている。年中行事としては4月17日御神忌,8月6~8日の虫干し,11月14日の十夜法要が知られる。
執筆者:藤井 正雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛知県岡崎市鴨田(かもだ)町にある寺。正式名称は大樹公寺。成道山松安院(じょうどうざんしょうあんいん)と号し、浄土宗鎮西派に属する。1475年(文明7)に岡崎城主松平親忠(ちかただ)を開基とし、勢誉愚底(せいよぐてい)を開山として、戦死者の回向(えこう)を弔うために創建された。爾来(じらい)、松平家歴世の菩提(ぼだい)所ならびに祈願所となり、徳川家康もしばしば参詣(さんけい)したという。松平8代の墓と家康の木像および歴代将軍の等身大の位牌(いはい)を安置する。本堂、開山堂、山門など建物の多くは徳川末期に再建されたものであるが、多宝塔は1535年(天文4)の造営で国重要文化財。大方丈には岡田為恭(ためちか)の障壁画(国重要文化財)があり、その他多くの寺宝が毎年8月16~18日に虫干し展覧される。
[森 章司]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
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