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1887年(明治20)徳富蘇峰(とくとみそほう)が湯浅治郎の協力を得て創業した出版社。アメリカの総合雑誌『The Nation』を模した『国民之友』(1887~98)は、平民主義を標榜(ひょうぼう)し進歩的な評論誌として評判で、続く『国民新聞』『家庭雑誌』『The Far East』も好評であったが、日清(にっしん)戦争後、蘇峰が桂(かつら)太郎内閣の藩閥政治を支援し、出版物に国家主義的論調が多くなるにつれて、大衆の支持を失うに至った。蘇峰のもとに集まった同人には、竹越三叉(たけごしさんさ)、塚越停春(つかごしていしゅん)、森田思軒(しけん)、宮崎湖処子(こしょし)、山路愛山(やまじあいざん)、徳冨蘆花(とくとみろか)らがおり、遅れて国木田独歩(くにきだどっぽ)が加わった。図書出版では、蘆花のベストセラー『不如帰(ほととぎす)』『自然と人生』、伝記書『十二文豪』、海外思想を紹介した「平民叢書(そうしょ)」、蘇峰の『近世日本国民史』など、同人の著書を中心に、政治、思想、文学にわたり刊行し、明治・大正期の文芸界に大きい影響を与えた。1933年(昭和8)民友社は明治書院に吸収合併され終焉(しゅうえん)する。
[大久保久雄]
『並木仙太郎編『民友社三十年史』(1917・民友社)』▽『杉井六郎・今中寛司・同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』(1977・雄山閣出版)』▽『平林一・山田博光編『民友社文学の研究』(1985・三一書房)』
1887年1月,徳富蘇峰が熊本の大江義塾の関係者を中心に東京赤坂に設立した思想結社および出版社。同年2月総合雑誌《国民之友》(社名は本誌に由来する)を創刊,同誌は藩閥政治と貴族的な欧化政策に反対して平民主義を掲げ,徳富らがその担い手と期待する〈田舎紳士〉をはじめとする青年知識層の支持を得て,明治中期の言論思想界に多大の影響を与えた。このほかの定期刊行物としては社名を変えてはいるが,90年《国民新聞》(国民新聞社),92年《家庭雑誌》(家庭雑誌社),96年には英文版《国民之友》として《The Far East》を創刊した。また,《国民叢書》《平民叢書》などをはじめとする書籍を出版し,社会主義・社会問題論を中心とする海外の新思想の紹介につとめた。しかし,日清戦争後,徳富の政府接近が変節視され,民友社は2度も民衆の焼打ちにあい,《国民之友》は凋落,98年8月《国民新聞》と合併するという名目で廃刊となる。以後,民友社は系列の国民新聞社の出版部的存在となり,1933年にその出版販売が明治書院に委託されるにいたって事実上出版活動を終えた。おもな社員には湯浅治郎,人見一太郎,山路愛山,竹越与三郎,国木田独歩らがいたが,活発な寄稿家としては植木枝盛,横山源之助,中江兆民らがあげられる。
執筆者:佐々木 隆
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1887年(明治20)1月に徳富蘇峰を中心に結成された思想結社・出版社。同年2月,雑誌「国民之友」を創刊して平民主義を唱えた。図書出版事業にも乗り出し,また「国民新聞」の国民新聞社,「家庭雑誌」の家庭雑誌社とともに新聞社・出版社グループを形成した。98年,蘇峰の帝国主義への転向で「国民之友」「家庭雑誌」の廃刊を余儀なくされ,民友社は図書出版と印刷に事業を縮小し,1945年(昭和20)の敗戦により事実上消滅。
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…こののち,明治20年代の大日本帝国憲法体制の創成期にこれらの政治党派とは距離をおいた言論人独自の文筆活動がさかんとなった。この時期の思想界の花形だった徳富蘇峰は民友社をひきいて雑誌《国民之友》と《国民新聞》などにより思想の近代化を唱え,彼のいう〈平民主義〉に多くの青年たちを共鳴させた。また二葉亭四迷や徳冨蘆花などによる文学の革新をも実現させた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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