平安時代の三論(さんろん)宗の僧。俗姓は藤原氏。京都の人。幼くして東大寺に入り、東南院の観理(かんり)(894―974)に三論を学び、石山寺の元杲(げんごう)(914―995)に密教を受けた。983年(永観1、一説に982年)8月に宋(そう)の商船に乗り入宋(にっそう)し、翌984年汴京(べんけい)に入って太宗にまみえて紫衣(しえ)と法済(ほうさい)大師の号を賜る。ついで五台山などを巡礼し、987年(永延1、一説に986年)2月に帰国した。宋版大蔵経5000巻、釈迦(しゃか)像(インドの優填(うてん)王が刻した栴檀(せんだん)の釈迦像を模刻したもの)、十六羅漢(らかん)画像などを請来(しょうらい)する。989年東大寺別当に任命されて3年間奉職した。のち弟子の盛算(じょうさん)が嵯峨(さが)の棲霞寺(せいかじ)境内に釈迦堂を建立して清凉寺(せいりょうじ)と号し、奝然の請来した釈迦像を安置した。この像は、三国伝来の栴檀瑞像として信仰を集めた。
[伊藤隆寿 2017年9月19日]
平安中期の三論宗の僧。俗姓は藤原氏。東大寺に学び,972年(天禄3)同僚の義蔵と仏法興隆を誓い,入宋(につそう)を志す。983年(永観1)宋の商人の船に乗って渡海。五台山などを巡礼し,皇帝の太宗から法済大師の号と紫衣を賜り,かつ新雕の大蔵経(だいぞうきよう)を与えられ,台州で優塡王(うでんのう)が栴檀(せんだん)で造ったという釈迦の瑞像(ずいぞう)を模刻し,986年(寛和2)帰国した。翌年,比叡山に対抗する意図をもって,京都の西の愛宕(あたご)山を五台山と号し,持ち帰った釈迦の瑞像を安置する伽藍(がらん)を建てて清凉寺と称することを奏請した。989年(永祚1)東大寺の別当に任ぜられる。なお,清凉寺の建立は,奝然の没後,弟子の盛算によって具体化した。
執筆者:中井 真孝
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938.1.24~1016.3.16
法済大師とも。平安中期の東大寺僧。俗姓秦(はた)氏。京都生れ。東大寺の観理(かんり)に三論教学を,石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学ぶ。早くから入宋を志して983年(永観元)入宋。天台山巡礼ののち汴京(べんけい)をへて五台山まで巡拝。太宗から大師号および新印大蔵経などを賜り帰途につく。途中,台州でインドの優填(うでん)王が造ったと伝える釈迦立像を模刻し,胎内に由来記などを納めて986年(寛和2)帰国し,翌年京都北野の蓮台寺に安置した。同年将来した釈迦像を安置するため,入宋前に伽藍(がらん)建立を誓った愛宕(あたご)山の地に清涼(せいりょう)寺の開創を請い,没後に実現した。また同年法橋,989年(永祚元)から3年間東大寺別当を勤めた。
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…これは宋朝による正法流布の功徳事業であったので,西夏,高麗,日本などの近隣諸国に国際友誼の意味をこめて贈与された。983年の年末に入宋した東大寺僧の奝然(ちようねん)は,離京に際して新撰の大蔵経481函5048巻と新訳経典40巻などを賜ったのである。この大蔵経の下賜をうけた高麗は,11世紀前半に覆刻版を出し,その版木が元軍による兵火で焼失すると,13世紀中葉には再雕本を完成させた。…
※「奝然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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