奥村政信(読み)オクムラマサノブ

デジタル大辞泉 「奥村政信」の意味・読み・例文・類語

おくむら‐まさのぶ【奥村政信】

[1686~1764]江戸中期の浮世絵師。俗称、源八。絵草紙問屋を経営紅絵べにえ漆絵紅摺べにずり絵など初期浮世絵版画彩色改良貢献。浮き絵・柱絵考案した。

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精選版 日本国語大辞典 「奥村政信」の意味・読み・例文・類語

おくむら‐まさのぶ【奥村政信】

  1. 江戸中期の浮世絵師。俗称源八。鳥居清信私淑美人画役者絵のほか、西洋風遠近法を採り入れた浮き絵も制作。版元奥村屋も兼ね、種々の色摺(いろずり)技術を改良した。貞享三~明和元年(一六八六‐一七六四

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改訂新版 世界大百科事典 「奥村政信」の意味・わかりやすい解説

奥村政信 (おくむらまさのぶ)
生没年:1686-1764(貞享3-明和1)

江戸中期の浮世絵師。通称源八。芳月堂,丹鳥斎,文角,梅翁,親妙などと号した。菱川師宣,鳥居清信画風を模倣することから始めて,すでに10歳代から浮世絵師としての生活に入る。確認される最初期の作品は,前年刊行の清信の絵本を模写した《娼妓画牒(けいせいえほん)》(1701)である。以後墨摺絵丹絵紅絵,漆絵,紅摺絵と浮世絵版画の初期の発達段階をすべて経験し,終始中心的な人気絵師として活躍,錦絵時代に入る前の年に没している。得意とした画域は美人画,役者絵,武者絵,花鳥画,風景画と広く,西洋画の透視遠近法を応用した浮絵(うきえ)を工夫,あるいは極端に縦長な画面の幅広柱絵という判式を創案して,〈浮絵根元〉〈はしらゑ根元〉などと自称した。こうした自己宣伝の癖は,享保(1716-36)の中ごろから自ら絵草紙問屋奥村屋を経営したことと無縁ではない。立羽不角に江戸座の俳諧を学び,京都の浮世絵師西川祐信の画風を慕って,俳諧的抒情に富んだ優雅な美人風俗画を得意とし,後進の石川豊信,鈴木春信らに大きな影響を及ぼした。肉筆画にも優れ,《小倉山荘図》(東京国立博物館)などがある。門人に奥村利信(生没年不詳)がおり,享保から寛延(1716-51)にかけて紅絵や漆絵の美人画・役者絵を多く描いた。柔らかな線と鮮やかな配色によって,優美艶麗の度は時に師をしのぐものさえあり,近年とみに評価が高い。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「奥村政信」の意味・わかりやすい解説

奥村政信
おくむらまさのぶ
(1686―1764)

江戸中期の浮世絵師。元禄(げんろく)期(1688~1704)から錦絵(にしきえ)誕生直前まで約60年の長期間活躍し、前錦絵時代を代表する絵師だが、生没年については異説もある。俗称源八。芳月堂(ほうげつどう)、丹鳥斎(たんちょうさい)、文角(ぶんかく)、親妙(しんみょう)などと号す。菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、鳥居清信風を基調に一流を確立。壮年期、版本を通じて京の西川祐信(すけのぶ)の影響も受ける。自負心が強く、晩年に至るまで研究心、開拓心を失わず、自身通塩町(とおりしおちょう)で版元奥村屋を経営した関係もあって、さまざまなくふうを試み、自ら版行した。ことに柱絵(はしらえ)、浮絵(うきえ)を創製したことは高く評価されている。美人画、役者絵、花鳥画、武者絵と幅広く活躍、肉筆画、版本も多いが、初期の丹絵(たんえ)時代の美人画はとくに優れ、生動感を抑え、柔和でふっくらとした優しさを感じさせる。代表作は『遊女張果郎』『遊色三幅つい』『七夕(たなばた)』など。門弟に奥村利信(としのぶ)がいる。

[浅野秀剛]


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百科事典マイペディア 「奥村政信」の意味・わかりやすい解説

奥村政信【おくむらまさのぶ】

江戸中期の浮世絵師。芳月堂,梅翁などと号す。作画期は錦絵出現以前の墨摺(すみずり)絵,丹絵漆絵紅摺絵の各時代にわたり,版画技法の発達に大きく貢献。役者絵を合成したような虚構性の強い抒情的美人画を描き,浮絵や柱絵の創案者とも考えられている。享保年間をほぼ政信様式一色に塗りつぶし,多くの追随者を出した。

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朝日日本歴史人物事典 「奥村政信」の解説

奥村政信

没年:明和1.2.11(1764.3.13)
生年:貞享3(1686)
江戸中期の浮世絵師。名は親妙,俗称源八。芳月堂,丹鳥斎,文角などと号した。鳥居清信を模倣した元禄14(1701)年の遊女絵本が初筆。以後,浮世草子,草双紙の挿絵や,美人画,役者絵の一枚摺を手がける。『絵本小倉錦』など,絵本も数多い。江戸通塩町の版元奥村屋の経営に参画し,一枚摺では幅広柱絵や,透視遠近法を用いた浮絵,三幅対風の組み物など,新形式の開拓に積極的に努めた。一枚摺における錦絵創始以前の浮世絵美人画の洗練に果たした役割も大きい。<参考文献>Robert Vergez《EarlyUkiyo‐eMaster,OkumuraMasano‐bu》

(大久保純一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奥村政信」の意味・わかりやすい解説

奥村政信
おくむらまさのぶ

[生]貞享3(1685)
[没]明和1(1764).江戸
江戸時代中期の浮世絵師。名は親妙,俗称源八 (あるいは源六) ,号は芳月堂,丹鳥斎,文角など。鳥居清信に私淑。俳諧のたしなみも深く,美人風俗の描写に情趣的な彩りを与えた。また版元奥村屋を営み,紅絵,漆絵という彩色版画の開発,浮絵の考案,幅広柱絵,三幅対の工夫など,浮世絵版画の発展に貢献。門人に漆絵の得意な奥村利信がいる。主要作品『遊色三幅対』 (東京国立博物館) ,『両国橋夕涼見浮絵』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「奥村政信」の解説

奥村政信 おくむら-まさのぶ

1686-1764 江戸時代中期の浮世絵師。
貞享(じょうきょう)3年生まれ。奥村派の祖。菱川師宣(ひしかわ-もろのぶ),鳥居清信の影響をうけ美人画,役者絵,花鳥画を手がける。遠近画法をもちいた浮き絵,細長い判の柱絵を創案。肉筆画にもすぐれた。版元,絵草紙問屋奥村屋としても活躍。宝暦14年2月11日死去。79歳。江戸出身。名は親妙。通称は源八。号は芳月堂,丹鳥斎,文角,梅翁など。作品に「小倉山荘図」など。

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世界大百科事典(旧版)内の奥村政信の言及

【浮絵】より

…近景が浮き出て見えるところからこの名が生まれたが,逆に遠景がくぼんで見えるところから〈くぼみ絵〉とも呼ばれた。1740年(元文5)の作と推定される奥村政信の《芝居狂言舞台顔見世大浮絵》などが早期の例で,寛保・延享年間(1741‐48)の第1次流行期に政信と西村重長が,また明和~天明年間(1764‐89)の第2次流行期に歌川豊春が多作している。浮世絵風景画の発展に寄与するところが大きかった。…

【浮世絵】より

…ことに江戸歌舞伎特有の荒事の演技を活写する鳥居派の〈瓢簞足蚯蚓描(ひようたんあしみみずがき)〉と称される描法は,役者絵独特の描法として現代にまで踏襲されている。享保年間以降の18世紀前半,紅絵・漆絵期には奥村政信が版画の,宮川長春が肉筆画の中心画家として活躍した。ともに描写は繊細の度を加え,詩的(文学的)情趣を伝えることに意が注がれるようになってくる。…

【懐月堂安度】より

…東川堂里風,伯照軒(松野)親信,梅翁軒永春,滝沢重信,西川照信らの名が知られる。また宮川長春,奥村政信らも強い影響を受けた。【小林 忠】。…

【芝居絵】より

…また,師宣には《北楼及演劇図画巻》(東京国立博物館)という肉筆画巻もあり,遊里とともに二大悪所と目された芝居町の風俗を多様な角度からとらえているが,木版画の一枚絵を主たる表現手段とした以後の浮世絵師は,個々の役者の姿絵に芝居絵の範囲をほぼ限定していくようになる。 そうした中で,西洋画の遠近法を採り入れた〈浮絵〉の手法により劇場の内部を統一的に描いた奥村政信(1686‐1764)や,三都の芝居町の楽屋内の模様をそれぞれ大判三枚続きの大画面に精細に報告した歌川国貞(1786‐1864),あるいは土壁への釘による落書になぞらえて滑稽な役者似顔の戯画を生んだ歌川国芳(1797‐1861)らの,異色の画業が特筆されるであろう。さらには,幕末の土佐に出て,奔放な筆致と原色的な色彩を用い,地方土着の激情を台提灯絵(だいちようちんえ)の芝居絵に発散させた絵金(1812‐76)の活躍も注目に価するものがある。…

※「奥村政信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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