妙源寺(読み)ミョウゲンジ

デジタル大辞泉 「妙源寺」の意味・読み・例文・類語

みょうげん‐じ〔メウゲン‐〕【妙源寺】

愛知県岡崎市にある真宗高田派の寺。山号は、桑子山。正嘉2年(1258)親鸞しんらん弟子領主安藤信平が開創、明眼寺と称した。のち、徳川家康保護を受け、妙源寺と改めた。

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精選版 日本国語大辞典 「妙源寺」の意味・読み・例文・類語

みょうげん‐じメウゲン‥【妙源寺】

  1. 愛知県岡崎市大和町にある真宗高田派の寺。山号は桑子山(平田山とも)。正嘉二年(一二五八)開創。開基は安藤信平(蓮慶)。妙眼寺と称した。永祿六年(一五六三三河一向一揆の際に徳川家康が布陣した寺。法然上人絵伝・親鸞聖人絵伝などの古画や古文書多数を所蔵する。

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日本歴史地名大系 「妙源寺」の解説

妙源寺
みようげんじ

[現在地名]岡崎市大和町 沓市場

桑子くわごの西端、自然堤防上の桑子城跡に立地。かつて寺域の西を矢作川の一支流が流れ、通称鎌倉街道が隣接して通る。桑子山と号し、真宗高田派。本尊阿弥陀如来華基かき院・平田ひらた山ともいう。三河国真宗道場として古く、真宗教団発展の基盤となった。寺伝によると、嘉禎元年(一二三五)親鸞が桑子城主安藤薩摩守信平の招請に応じて、城内太子たいし堂において説法を行った折に安藤氏は直ちに帰依し、面授の法弟念信房蓮慶となり、正嘉二年(一二五八)城地を割いて一宇を創建明眼みようがん寺と称し開基となるという。念信は親鸞聖人門侶交名牒(妙源寺蔵)によれば、三河国における専修寺派の開祖にあげられている。なお、貞治三年(一三六四)成立と推定される「三河念仏相承日記」(上宮寺蔵)の「三河国専修念仏根源事」に、

<資料は省略されています>

とあり、親鸞の説法から二一年後に上人面授の高弟真仏・顕智・専信が「ヤハギ薬師寺」で念仏勧請し、三五人が門徒となったという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「妙源寺」の意味・わかりやすい解説

妙源寺
みょうげんじ

愛知県岡崎市大和(だいわ)町沓市場(くついちば)にある真宗高田派の寺。桑子(くわご)山と号する。華基(かき)院、平田山(ひらたさん)ともいう。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。親鸞(しんらん)の門弟念信房蓮慶(れんきょう)の開基。蓮慶は、もと安藤薩摩守(さつまのかみ)信平(のぶひら)といい、当地の領主であった。1235年(嘉禎1)親鸞が帰洛(きらく)のとき、信平は城内の太子堂に親鸞を請(しょう)じ、法化(ほうげ)を受けて弟子となった。1258年(正嘉2)城地の一部に一寺を建て、明眼(みょうげん)寺と称した。多田(源)満仲の発願により阿弥陀仏を安置、これを黒本尊という。三河念仏発祥の地である。永禄(えいろく)年間(1558~70)、一向一揆(いっこういっき)のとき、徳川家康は黒本尊に祈願し、難を逃れたという。のちこの本尊は増上(ぞうじょう)寺に奉安され、家康は寺号を妙源寺とし、厚く保護した。寺内太子堂は柳堂(鎌倉末期の建立)とも称し、親鸞聖人(しょうにん)絵伝、法然上人(ほうねんしょうにん)絵伝、善光寺如来絵伝とともに国重要文化財に指定されている。

清水 乞]

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デジタル大辞泉プラス 「妙源寺」の解説

妙源寺

愛知県岡崎市にある浄土真宗高田派の寺院。1258年建立、1314年再建の柳堂(太子堂)は国の重要文化財に指定されている。

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