妙行寺(読み)みようぎようじ

日本歴史地名大系 「妙行寺」の解説

妙行寺
みようぎようじ

[現在地名]柏崎市西本町一丁目

いま町の北にある。日蓮宗、海岸山と号し、本尊十界大曼荼羅。寺伝によると、もと鯨波の塔野輪くじらなみのとうのわ(東の輪)にあり、法修山妙行寺と号して、真言宗海岸山大乗だいじよう寺の慈福の兼務であった。慈福は文永一一年(一二七四)三月佐渡から赦免され柏崎に漂着した日蓮との法論の末、改宗して日心と改めた。日敬の代に大乗寺を併せて現在地に移り、現寺号としたという。大乗寺は当寺が別当を勤める下宿しもじゆく番神ばんじん堂の前身で、改宗ののち普益ふえき堂と号し、さらに三十番神を祀る番神堂となった(刈羽郡旧蹟志)。改宗以前は八幡を鎮守とした寺院と思われる(白川風土記)。天正八年(一五八〇)頃の赤田あかだ(現刈羽郡刈羽村)東福とうふく院に宛てた五月二三日付斎藤朝信書状(東福院文書)によると「妙行寺分」を寺領として寄進する旨の記載があるが、当寺とのかかわりについては不明。


妙行寺
みようぎようじ

[現在地名]与野市鈴谷四丁目

東永山と号し、日蓮宗。本尊は一塔両尊四士、また鐺冠日親自作自開眼と伝える日蓮像を安置する。近世には中山法華経なかやまほけきよう(現千葉県市川市)末寺。創立年代は不詳であるが古くは心浄しんじよう寺といい、臨済宗建長寺派の寺院であったという。応永(一三九四―一四二八)の頃、中山法宣ほうせん院三世日英が日蓮宗に改宗したと伝え、日英を開山とする(「風土記稿」など)。慶安二年(一六四九)徳川家光から寺領一〇石が与えられている(「徳川家光朱印状」寺蔵)。寺伝によると、一五世日隆の代に東栄山妙行寺と称するようになったとされ、安永二年(一七七三)火災により堂宇を全焼するが、同七年に再興し、山号を東永山と改めたという。


妙行寺
みようぎようじ

[現在地名]長崎市相生町

諏訪神社の北にある。法嶺山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。万治元年(一六五八)長崎桶屋おけや町の光英こうえい寺に逗留していた西順が大村藩四代藩主大村純長の知遇を得て寺地を寄進され、一宇建立を行った。寺号はもと住持であった高来たかく深江ふかえ(現深江町)の妙行寺を継承するが、寛文三年(一六六三)京都本願寺から寺号・山号の公称が許され、またこの年純長の援助で本堂が建立された。


妙行寺
みようぎようじ

[現在地名]河内村生板 西坪

満足山極楽院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。「妙行寺寺院明細」によれば、大同元年(八〇六)満願丸田まるた不断所に開基、貞和元年(一三四五)四一世忠海のとき現在地に移転。文化九年(一八一二)火災にあい、同一四年再建。当時は境内一千五八〇坪、本堂・庫裏・書院を有した。江戸時代は東叡山寛永寺の直末で末寺は一四ヵ寺を数えた。


妙行寺
みようぎようじ

[現在地名]中村区中村町 木ノ下屋敷

現中村公園の東側にある。正悦山と号し、日蓮宗。本尊法華三宝。清正堂には本妙ほんみよう(現熊本市)より伝わる木像を安置する。寺伝によれば、草創不詳。古くは真言宗正起山本行寺と称し、その後天文年中(一五三二―五五)日勢により現在名に改号した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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