翻訳|aphrodisiac
自分や相手の性欲や性的快感を増大させるために用いる薬の総称で,催淫薬ともいう。長大な陰茎をよしとしてこれを求める願望と関連した男性性器を大きくする薬や,女性性器を小さくする薬といわれるものも媚薬の中に数えられるのは,それによって性感がいっそう高まると信じられているからである。そのラテン語アフロディシアクムaphrodisiacum(複数形aphrodisiaca)は,ギリシア神話の美と官能の女神アフロディテに由来する近代の学術的造語である。
惚薬(ほれぐすり)も媚薬の一つであるが,これを用いれば相手が特定の人物に恋慕の情をつのらせると信じられた。〈イモリの黒焼き〉はその代表的なもので,江戸時代に淫薬専門の四目屋(よつめや)と称する薬屋が売った撒布薬である。交尾期のイモリの雌雄を節をへだてて竹筒に入れると一夜のうちに節を食い破って交尾し,引き離して焼けば山を隔てていてもその煙が空中でいっしょになるという言い伝えから考案された薬だが,一説にはこの俗信のもとになった中国のイモリは日本のものとは別だという。惚薬にまつわる話は西洋にもあって,アーサー王伝説中のトリストラム(トリスタン)とイズルト(イズー,イゾルデ)の悲劇は,イズルトがマーク(マルク)王と結婚する夜に2人で飲むべき惚薬をトリストラムとイズルトが飲んでしまったことで決定的となった。
体力増進をはかる強精剤も,性的能力を高めて性欲を高進させることになるので広義の媚薬に含まれる。総じて媚薬の中には薬理的に催淫作用が肯かれるものもあるが,荒唐無稽なのも少なくない。だが性的興奮は心理的側面が小さくなく,一般に偽薬(プラシーボ)でも信じればある頻度で効くのだから,媚薬も信じる者にはそれなりに効を奏しうる。
バラモン教の4ベーダのうち,神官が唱える呪法をまとめた《アタルバ・ベーダ》の中に〈性欲を増進させるための呪文〉があって,男根を興奮させる薬草のことが繰り返し述べられている。古代インド人はこの方面をかなり熱心に探究しており,4~5世紀ごろの成立とされている《カーマスートラ》には薬で異性を魅惑する方法11種,強精剤13種,男根増大法4通り,その他性欲を衰えさせる薬のいくつかが記されている。また《ラティラハスヤ(性愛秘義)》(成立年代不詳,13世紀以前)にも精力を増大する薬,男根を大きくする薬,女性の性感を高める薬,女性性器を小さく縮めたり広げたりする薬が示され,《アナンガランガ(愛擅)》(16世紀)にも女性の性感を促し男性のそれを遅らせる薬や,強精剤の処方があり,なかには100人の女性と交わることも可能となる途方もないのもある。また,塗れば1分足らずのうちに馬のような陰茎になる薬や,乳房を大きくする薬,陰唇を膨張させる薬,50歳の経産婦も処女のように狭小な性器を得る薬,女陰の陰毛を除く塗薬など多彩である。
古代中国の文献もインドに劣らない。本国では散逸したが日本の《医心方》(丹波康頼撰述,984奏進)などに引用されているのを葉徳輝(1864-1927)がまとめた《素女経》には,彭祖が推奨する麋角(びかく),附子(ぶし),茯苓(ぶくりよう)などを混ぜた強精剤があり,《素女方》も茯苓の性欲増進効果を強調し,《玉房秘決》は陰萎を治す薬や陰茎を大きくする薬をあげ,《玉房指要》は一晩に70人の女と交わることもできたという催淫剤や,陰茎を長大にしたり玉門を小さくする薬の処方を述べ,《洞玄子》は陰萎に効く鹿角散,陰茎が3寸長くなる長陰方,12,13歳の少女のそれのように,陰部がきつくなる石硫黄,雄鶏が食べたら雌鶏の鶏冠が禿げるまで啄んで交接し続けたという禿鶏丸の処方を教えている。一方,《食経》には性欲をたかめ精を回復する食物として,鹿の腎の羹(あつもの),羊肉の羹,山薬飥(たく)その他が挙げられその調理法が記されている。
日本にも〈イモリの黒焼き〉のほかに数々の媚薬がある。江戸時代に流行したおもなものは長命丸,神仙丹,陰陽丹,女悦丸,寸陰方,鶯声丹,緑鶯膏,延寿丹,蠟丸,人馬丹,喜命丸,思乱散,女乱香,帆柱丸,地黄丸,童女丹,如意丹,得春丹その他で,内服薬,座薬,撒布薬,塗薬などがあり,使用目的も女悦,強精,性交時間の延長,女性器の縮小などいろいろである。いかにも効きそうな名が多いが,これらの紹介が当時の《好色旅枕》《独寝(ひとりね)》などの好色もの,《色道禁秘抄》その他にみえる。手軽なのもあり,《好色重宝記》はすりおろした里芋を玉門に塗れば女が悦ぶと説く。なお,童話〈桃太郎〉の原型は,一説には回春作用があると信じられた桃の実が川上から流れて来たのを食べた老夫婦から子が生まれたという話であるという。四目屋の名高い長命丸は精を漏らさず長く性愛を楽しむ強精薬だが,長生きの妙薬とまちがわれた話がある。〈名に惚れて長命丸を姑のみ〉。
このような媚薬にまつわるユーモラスな作話も少なくない。《逸著聞集(いつちよもんじゆう)》には性欲がたかぶって困る人が,教えられて鰻,鶏卵,山芋,牛蒡などいずれも強精食といわれるものを食べたら,かえって陰茎が激しく勃起して火のように燃え,水に浸したら湯になったとある。また,陰部に薬を塗られた常盤(ときわ)御前が淫欲高まって平清盛に身をまかせながら子どもたちの助命をとりつけた話(黒沢翁満《藐姑射秘言(はこやのひめごと)》)とか,尼将軍政子が腎虚になったので淫羊藿(いんようかく)(強精の効によって陰茎が怒るほど勃起するというので和名を〈イカリソウ〉という)に男女の淫水2升を混ぜる丹薬を造るため,若侍と御殿女中各100人がいっせいに交わる話(平賀源内《長枕褥合戦》)などもある。
他方,まじめだが内容がすごいのは,俳人小林一茶が自分たち夫婦の性交をきちょうめんに記録した《七番日記》や《九番日記》である。52歳で24も若い妻を娶った彼は,日夜性交に励んで1日3回は普通のこと,多い日は5回で1週間に22回ということもあった。妻と死別して62歳で38歳の後妻を迎えたとき,すでに3年前に脳卒中を病んでいるのに1晩に5回交わってあきれられ間もなく離縁,64歳で3度めの妻を得て子を宿らせている。一茶のこの旺盛な性欲を心理的に支えたのは,淫羊藿,黄精,竹節人参,二股車前子などをみずから採取して強精薬をつくり,後には蛇などの動物性催淫薬も用いるといった媚薬信仰だった。先祖の墓参りをした帰りにも薬草を掘り,せっかく採った竹節人参を盗まれては一喜一憂するなど,ひたすら関心を強精薬に向けている。
古代エジプトの第5王朝ウナス王のテキストに,死者が鰐の神セベクの男性的な力を得ようと望んだとあるのは,鰐に性的なたくましさをみるからで,鰐を媚薬として食べる風習が今もこの地にはある。プラトンが美味として激賞したアテナイ郊外ヒュメットス山の蜂蜜は香りの強いタチジャコウソウの蜜だが,これがローマではオウィディウスが《アルス・アマトリア》で勧める数少ない媚薬の一つである。上記のインド媚薬の多くにも蜂蜜が含まれている。大プリニウスは,人参の一種スタフィリヌスから媚薬を得たのはオルフェウスだ,と植物性媚薬の話もするが(《博物誌》第20巻),彼がもっぱらあげる媚薬は,猪の胆汁,豚の脊髄,鵞鳥の脂に驢馬の脂肪を混ぜたもの,性交後の牝馬の陰液,馬の睾丸,驢馬の右側の睾丸のワイン漬け,驢馬の睾丸を熱いオイルに7回漬けたもの,性交後の驢馬の汗,性交後の牡牛の尿,鼠の糞など,動物性のゲテモノばかりである(同第28巻)。
フランスの美食家A.ブリヤ・サバランが《美味礼賛》(1825)で説くトリュフの強精効果は,この茸をアフロディテが好物としたという伝説とも関連して古くから信じられ,今もフランス料理などで珍重されている。けれども中国ではこれを雷丸といって小児薬または解熱薬に用いており,長く連用すれば陰萎(インポテンツ)になると逆の副作用をあげている(李時珍《本草綱目》)。要はどちらを信じるかということだろう。
→強精剤 →催淫薬
執筆者:池澤 康郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
性欲を催させる薬。服用薬を主体とするが、塗布や散布用のものなどもある。この媚薬を自分が用いる場合は「催淫(さいいん)剤」または「淫薬」、相手に欲情をおこさせる目的の場合は「惚(ほ)れ薬」と、それぞれ別名でよぶことはできよう。しかし、媚薬は「媚」という文字を使っているのだから、自分と相手との関係をとくに念頭に置いている名称であることに注目したい。このことは、媚薬の学術的用語が、ギリシア神話の絶世の美女のアフロディテ(ローマ時代以後「ビーナス」とわれわれがよんでいる美女神)に由来するアフロディシアクムaphrodisiacumというラテン語(英語では、アフロディジィアックaphrodisiac)であることをみても、理解できよう。また、媚薬には即効性が求められるので、かならずしも即効性を求めない強精剤や回春剤とは、いちおうの区別をつけておく必要があろう。アラビアをはじめとして、相手に媚薬を飲ませてくどき落とす話がいろいろと世界にあるが、媚薬はこのような目的にのみ使われたわけではない。男性にあっては、勃起(ぼっき)の促進や強大化、持続力増大化、性交回数増加などの目的が設定されている。女性にあっては、性的興奮以外に、陰唇の膨張化や女門の狭小化を促すといわれるもの、あるいは乳房を大きくするというものなどがある。媚薬が催淫剤である以上、催淫作用はあるにせよ、いま述べたような目的を万人に十分に達成させうるものかどうか、かならずしも信用できない。しかしながら、性的興奮には心理面が大きく作用することは否定できない。だから、この媚薬を飲んでこんなに効果をあげえたという誇大化された話や、たとえばロバの睾丸(こうがん)を熱いオイルに浸(つ)けたものが原料であるなどというような説明が、媚薬に付きまといがちである。いいかえれば、媚薬の効力そのものとともに、媚薬にまつわる話が風俗的に興味の対象となり、だいじにされる傾向もあるわけである。
媚薬は古来世界のどこにでもあるものであった。とくにインドと中国での媚薬づくりは有名である。世界最古の性愛書といわれるインドの『カーマスートラ』(4世紀ごろ)では、異性魅惑法、強精剤、男根増大法などと分類したうえ、処方さえ述べている。中国の媚薬づくりは日本にも伝わり、イモリの黒焼きをはじめとする動物系のもののほか、鹿茸(ろくじょう)、肉蓯蓉(にくじょうよう)、山薬(さんやく)などの植物系のものなど、数々の媚薬が日本でつくられた。その一方、古代エジプトでは神聖視するワニを媚薬として食べたが、ヨーロッパの媚薬には動物系のものが伝統的に多かった。現代でも媚薬づくりは絶えないが、ヨヒンビンなど生化学薬品になったのが特徴である。
ところで、媚薬がたいせつな役割を演じている中世物語やオペラのことも見逃してはなるまい。そのなかでもっとも有名なものがアーサー王伝説中のトリスタンとイゾルデの物語で、ワーグナーのオペラでもおなじみだが、これはイゾルデがトリスタンとともに誤って媚薬を飲んだためにおこる悲劇である。
[深作光貞]
字通「媚」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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