富田城跡(読み)とだじようあと

日本歴史地名大系 「富田城跡」の解説

富田城跡
とだじようあと

[現在地名]広瀬町富田

がつ山に築かれた中世から近世初頭の城郭。戦国期の史料には戸田城とも記され、また月山富田城月山城ともよばれた。国指定史跡。「雲陽軍実記」などの軍記物には、源平争乱時に平家の武将が築いたとも記されるが、その根拠は明らかではない。富田庄は承久の乱以後、出雲国守護佐々木氏による支配が確認されるが、守護による支配は鎌倉初期以来のものであり、それは平家没官領であったとみられるので、平家と富田城の関係も想定可能である。鎌倉中期から約一世紀間は佐々木氏の一族富田氏が支配したが、富田城がその機能を果すのは南北朝の動乱においてであろう。観応元年(一三五〇)八月日の諏訪部貞助軍忠状(三刀屋文書)には「富田関所」の記載がある。伯耆国や美作国に隣接することもあって政治的・軍事的重要性が高まり、また中国山地地域の鉄の生産と流通を掌握するうえでも重視されたのであろう。康暦元年(一三七九)に出雲国守護が京極氏から山名氏に交替したことに伴う合戦が富田城や近接の新宮しんぐう城で行われ(応永一九年四月日「巌倉寺再興勧進帳」巌倉寺文書、続群書類従本「佐々木系図」)、明徳四年(一三九三)には明徳の乱で破れた山名満幸の代官塩冶駿河守が富田城に籠城している(明徳記)。一五世紀以降、守護京極氏の出雲国支配が展開していくなか富田城はその拠点となり、一五世紀中頃以降には尼子氏が出雲守護代として富田城を管理していたと考えられる。応仁・文明の乱においては、伯耆国の山名氏との対立が深まったこともあり、富田城の大木戸役を出雲国人が交替で勤めていたが、なかには下笠氏のように山名氏と結んで門の警護から離脱するものもあった(推定文明八年五月一二日「京極政高書状」佐々木家文書)

天文一〇年(一五四一)の尼子氏の安芸国吉田よしだ(現広島県吉田町)攻撃が失敗したことにより、同一二年には大内軍が京羅木きようらぎ山に布陣して富田城を攻撃したが、成果をあげることなく退却している(陰徳太平記)。永禄五年(一五六二)暮以後は洗合あらわい(現松江市)に布陣した毛利元就軍が富田城を包囲し(同書)、同九年一一月二八日には尼子義久が降伏して城を明渡している(「二宮俊実覚書」吉川家文書)毛利氏は富田城に毛利元秋と天野隆重を置いたが、同一二年六月には尼子勝久を中心とする尼子再興軍が出雲国に進入し、富田城奪回を目指した。その最中の一二月一九日毛利(富田)元秋は富田庄七〇〇貫・山佐やまさ三〇〇貫など富田城周辺の所領を与えられている(「毛利元就・同輝元連署充行状」閥閲録)

富田城跡
とんたじようあと

[現在地名]根占町川南

川下流左岸、標高八二メートルを最高地点とする東から西に延びるシラス台地の先端を主とする山城。戦国期にはもっぱら禰寝ねじめ城・ほん城といわれ、南谷みなみだに城ともいう。建仁三年(一二〇三)禰寝清重禰寝ねじめ南俣みなみまたの地頭職を宛行われたが(同年七月三日「関東下文案」禰寝文書)、「三国名勝図会」「薩隅日三州他家古城主来由記」とも清重を最初の城主とし、その子孫禰寝氏を歴代城主とする。清重は桓武平氏流というが(平氏禰寝家系図)、大隅国建久図田帳には建部清重とみえ、大隅国の在庁官人・郡司・地頭で、大隅半島南部の有力領主であった。伝承によれば清重は高木たかき(現佐多町)を築き、その子孫の清治が正安三年(一三〇一)に当城を築いて移ったといわれ、この時期まで当城の存在は確認できない。南北朝期、近隣に城郭を築いて南朝方となる者が出ると禰寝清成はその城攻めに動員され(建武三年三月一〇日「足利尊氏御判御教書案」禰寝文書)、永徳元年(一三八一)九月三日に久清が禰寝北俣(現大根占町)を安堵されていることから(「今川了俊安堵状」同文書)、禰寝氏は一四世紀前半には当城を築いたと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「富田城跡」の解説

とだじょうあと【富田城跡】


島根県安来(やすぎ)市広瀬町にある城跡。富田川(飯梨川)の東岸、標高197mの月山(がっさん)の山上にある富田城跡は、山陰山陽に覇をなした尼子(あまご)氏の居城である。富田城が築かれたのは、長寛~文治年間(1163~1189年)と推定される。平安時代末期に平景清(たいらのかげきよ)が初めて築城したという伝説もあるが確かではない。鎌倉時代は佐々木氏、南北朝時代は山名氏、室町時代は京極氏と、歴代守護の居城となった。富田城が最も華やかに歴史の舞台に登場するのは、京極氏の守護代であった尼子氏、なかでも尼子経久(つねひさ)の時代である。経久は、守護京極政経(まさつね)と対立し富田城を追放されるが、1486年(文明18)に富田城を奪回し、戦国大名として独立した。尼子氏は最盛期には山陰山陽の11ヵ国を領有するまでになり、1566年(永禄9)に毛利元就(もとなり)の侵攻で城を明け渡すまでの約80年間、富田城は尼子氏の本拠地であった。その後、堀尾吉晴が入城したが、1611年(慶長16)に松江城に移ったたため、富田城は廃城となった。富田城は、砦のような断崖絶壁で守られ、麓を外堀のように飯梨川が流れるため、難攻不落の城として知られ、菅谷口・御子守口・塩谷口の3つの登り口しかなかった。山頂の堀切りや大手門の石垣などが残っており、1934年(昭和9)に国の史跡に指定された。御子守口へは、山陰本線安来駅からコミュニティバス「月山入口」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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