寺崎広業(読み)テラサキコウギョウ

デジタル大辞泉 「寺崎広業」の意味・読み・例文・類語

てらさき‐こうぎょう〔‐クワウゲフ〕【寺崎広業】

[1866~1919]日本画家。秋田の生まれ。幼名、忠太郎。別号、天籟散人てんらいさんじんなど。日本美術院の創設に参加。清新な山水画を多く描いた。

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精選版 日本国語大辞典 「寺崎広業」の意味・読み・例文・類語

てらさき‐こうぎょう【寺崎広業】

  1. 日本画家。秋田県出身。狩野派を学び、のち四条風・大和絵風を取り入れた画風を築く。晩年は新南画確立努力。東京美術学校教授、帝室技芸員などを歴任代表作「高山清秋」「杜甫」。慶応二~大正八年(一八六六‐一九一九

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20世紀日本人名事典 「寺崎広業」の解説

寺崎 広業
テラサキ コウギョウ

明治・大正期の日本画家



生年
慶応2年2月25日(1866年)

没年
大正8(1919)年2月21日

出生地
出羽国秋田(秋田県秋田市)

別名
幼名=忠太郎,字=徳郷,初号=秀斎,別号=宗山,騰竜軒,天籟散人

経歴
秋田藩の家老の家に生まれ、初め郷里で小室秀俊について狩野派を学ぶ。明治21年上京して平福穂庵四条派を学び、諸派の画法をとり入れ南画に新風を吹きこんだ。24年日本青年絵画協会結成に参画、29年日本絵画協会に委員として参加、のち委員長となる。岡倉天心に知られ、30年東京美術学校助教授に就任。31年校長を辞任した天心にしたがって日本美術院の創立に加わり正員となる。34年東京美術学校に教授として復職、大正3年日本画科主任となり、6年帝室技芸員となる。この間、明治34年天籟画塾を開いて多くの門弟を養い、40年から大正7年まで文展審査員をつとめるなど、画壇に重きをなした。初期の頃は美人画を多く描き、新聞、雑誌の挿絵も描いたが、明治30年以後は山水画の研究に転じた。代表作に「大仏開眼」「渓四題」「瀟湘八景」「高山清秋」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寺崎広業」の意味・わかりやすい解説

寺崎広業
てらさきこうぎょう

[生]慶応2 (1866).2.25. 秋田
[没]1919.2.21. 東京
日本画家。秋田藩家老の家に生まれる。幼名は忠太郎,字は徳郷。秀斎,宗山などと号し,中年以降はもっぱら広業を用いた。狩野派を学び 1888年上京して平福穂庵に師事。挿絵を描きながら苦学を重ね,倪雲林(げいうんりん),王蒙に私淑して独自の平明な作風を築き,明治期の南画の開拓に尽くした。1891年日本青年絵画協会や 1898年日本美術院の創立に参加。文展審査員,東京美術学校教授,帝室技芸員に任じられて東都画壇で重きをなし,門下から野田九浦,矢沢弦月,中村岳陵らを出した。主要作品『悉達多語天使』(1896,東京芸術大学),『渓四題』(1909,東京国立近代美術館)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺崎広業」の意味・わかりやすい解説

寺崎広業
てらさきこうぎょう
(1866―1919)

日本画家。秋田生まれ。幼名忠太郎。小室秀俊(こむろひでとし)、平福穂庵(ひらふくすいあん)に学び、のちに上京。『絵画叢誌(そうし)』に古画の縮図や口絵を描き、山田敬中(けいちゅう)、邨田丹陵(むらたたんりょう)らと研究会をもちながら苦学。1897年(明治30)東京美術学校助教授となるが、翌年の美術学校騒動で岡倉天心らとともに辞職し、日本美術院の創設に参加。1901年(明治34)には、美術院正員のまま美術学校に復職し、教授となった。07年の第1回文展から第7回展まで審査員を務め、17年(大正6)帝室技芸員となった。代表作は『秋苑(しゅうえん)』『大仏開眼』『高山清秋』など。門下に野田九浦(きゅうほ)、中村岳陵(がくりょう)、町田曲江(きょくこう)らがある。

[二階堂充]

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朝日日本歴史人物事典 「寺崎広業」の解説

寺崎広業

没年:大正8.2.21(1919)
生年:慶応2.2.25(1866.4.10)
明治大正期の日本画家。羽後国秋田生まれ。幼名忠太郎のち広業。祖父は秋田藩の家老という家柄だったが,明治維新後父の事業失敗により苦学を強いられた。明治21(1888)年上京して平福穂庵に四条派を学ぶ。日本青年絵画協会で活躍し,岡倉天心に認められて30年東京美術学校(東京芸大)助教授となる。翌31年東京美術学校騒動により同校を辞職,日本美術院設立に参加するが,34年教授として復職し,40年の文展開設後は官展の代表的作家として重きをなした。作品は,明治期の歴史画から次第に風景画に移り,南画風を加えた画風に移行した。大正6(1917)年帝室技芸員となっている。

(佐藤道信)

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百科事典マイペディア 「寺崎広業」の意味・わかりやすい解説

寺崎広業【てらさきこうぎょう】

日本画家。秋田県生れ。幼名忠太郎。秀斎,宗山などと号したが,中年以後は広業と号した。初め小室秀俊に狩野派を学び,のち上京して平福穂庵に入門し四条派を学ぶほか,諸派の技法を研究,日本青年絵画協会,日本絵画協会などで活躍。後期には新南画の開発に向かう。代表作《渓四題》。
→関連項目正宗得三郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「寺崎広業」の解説

寺崎広業 てらさき-こうぎょう

1866-1919 明治-大正時代の日本画家。
慶応2年2月25日生まれ。平福穂庵(ひらふく-すいあん),菅原白竜にまなぶ。明治30年東京美術学校助教授。31年岡倉天心らにしたがい,辞職して日本美術院の創設に参加したが,34年教授として復帰。大正6年帝室技芸員。大正8年2月21日死去。54歳。出羽(でわ)秋田出身。本名は広業(ひろなり)。別号に天籟散人,騰竜軒。代表作に「秋苑」「大仏開眼」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「寺崎広業」の解説

寺崎広業
てらざきこうぎょう

1866〜1919
明治・大正時代の日本画家
羽後(秋田県)の生まれ。1888年上京。初め四条派・円山派の写生画を学ぶ。南画をとり入れて独自の境地を開き,初期の文展で活躍した。代表作に『大仏開眼』『千紫万紅』など。

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367日誕生日大事典 「寺崎広業」の解説

寺崎 広業 (てらさき こうぎょう)

生年月日:1866年2月25日
明治時代;大正時代の日本画家
1919年没

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