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19世紀なかば、プロイセンの指導のもとに、オーストリアを除外してドイツの政治的統一を実現しようとした立場。当時なお大小の領邦諸国家に分裂していたドイツのなかで、プロイセンは、ドイツの経済的統一を促進するため1834年、オーストリアを除くドイツ諸邦と関税同盟を結び産業資本家層の信頼を得た。小ドイツ主義は、このような状況下に唱えられた。48年の革命(三月革命)に際して、ドイツ統一問題を審議したフランクフルト国民議会では、小ドイツ主義路線は、オーストリアを盟主として大ドイツ連邦を建設しようとした大ドイツ主義を圧倒して多数を占め、プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世をドイツ皇帝に選出した。しかし、国王が帝冠を拒絶したためこの試みは挫折(ざせつ)。その後プロイセンは上からの近代化を推し進め、1866年にビスマルクの指導のもとでオーストリアを屈服させ(プロイセン・オーストリア戦争)、結局70年、小ドイツ主義的ドイツ統一を軍事力によって実現した。
[良知 力]
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大ドイツ主義と対置される19世紀の政治的傾向。オーストリアを除外し,プロイセンの指導によるドイツの統一をめざすもの。宗教上はプロテスタント色が強く,ビスマルクの帝国創建を思想的に準備した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ドイツとオーストリアを統合し,すべてのドイツ人を包含する一つのドイツ統一国家を建設しようとする立場。歴史的には1848年の革命の過程で現れ,オーストリアの排除もやむなしとする〈小ドイツ主義〉と対立した。大ドイツ主義は元来ドイツ人の自然な民族感情に発しており,実際48年の革命では,最初はすべての人が〈大ドイツ主義者〉であったといえる。…
…1834年発足のドイツ関税同盟もプロイセンの関税政策を他国に拡大したものであり,48年には,プロイセンはドイツで最も工業の発展した国になっていたのである。48年の三月革命の過程でいわゆる小ドイツ主義が力を得たのも,経済力に裏打ちされたプロイセンの自己改革能力に対する期待があったからこそのことである。 1848‐49年の革命(48年革命)の決算は二様に評価しうる。…
… 議会は6月オーストリアのヨーハン大公を帝国摂政とするドイツ中央政府を樹立したのち,憲法の審議に入った。憲法はドイツ諸国を連邦制的に統一するとともに〈ドイツ国民の基本権〉を定めようとし,このうち〈基本権〉の部分は48年12月に完成して直ちに発布されたが,統一ドイツ国の国制に関しては〈大ドイツ主義〉と〈小ドイツ主義〉の対立が生じて審議は紛糾した。しかしドイツ系オーストリアをその他のオーストリア領(ハンガリー,北イタリアなど)と切り離してドイツ国に含めようとする〈大ドイツ主義〉は,その間に態勢を立て直したオーストリア政府によって拒否され,議会は結局実質的に〈小ドイツ主義〉の道をとって,49年3月憲法を可決するとともにプロイセン国王を世襲のドイツ皇帝に選んだが,国民主権に基づくこの〈小ドイツ〉的帝冠はプロイセン国王自身によって拒否されて,議会の全事業は宙に浮いてしまう。…
※「小ドイツ主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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