千田村(読み)ちだむら

日本歴史地名大系 「千田村」の解説

千田村
ちだむら

[現在地名]有田市千田

辻堂つじどう村の南にある。有田川の堆積作用がしだいに進んで河湾が後退していくと、千田の北西、から当地にかけて低湿地が残り、山麓部にまず集落が発生、しだいに北西の低湿地を耕地化していったものであろう。村は六集落からなり、東部に佐山さやま野井のい東山ひがしやま、西部に鳥間とま西方にしかた中山なかのやま峠を越えて湯浅ゆあさ湾に面して漁村集落の高田たかたがある。「続風土記」は「沃野広平なるを以て千田の名あるなり」と記す。

慶長検地高目録によれば村高一千六石余、天保郷帳では一千一九一石余で、増高は新田開発による。

千田村
せんだむら

[現在地名]金沢市千田町

いま村の西、金腐かなくさり川下流右岸に位置。芹田の「セリ」が「セン」に転訛したといわれ(加賀志徴)、「和名抄」記載の加賀郡芹田せりた郷の遺称地とされる。大治年間(一一二六―三一)と推定される四月六日の散位藤原某書状(半井家本「医心方」巻二五裏文書)に「芹田郷」とみえ、大盤所御乳母尾張局(高階為遠の娘・白河院女房か)に預けられ新領主尾張局の下人が使者として国司庁宣を携えて下向している。暦応四年(一三四一)八月七日の摂津親秀譲状(美吉文書)に山城穢土えど(現京都市西京区西芳寺)領分として「千田郷内供料田弐町、同月峰参町、末延名田地」とある。

千田村
せんだむら

[現在地名]福山市千田町千田・横尾よこお町・横尾一―二丁目

蔵王ざおう山塊の北麓に開かれた小盆地に発達した集落。古代備後国府のあった府中(現府中市)から芦田あしだ川沿いに福山湾岸に出る交通路にあたり、しかも福山湾岸の良港深津ふかつに通ずる地溝をなす低地帯である。千田沼と称する平野の周辺の山麓一帯には千塚ちづか古墳群や蔵王原古墳群など多数の古墳があり、蔵王原遺跡からは舶載の魏の三角縁獣帯鏡が出土、千塚古墳群の後期横穴式石室からは装身具の玉類、須恵器など多くが出土している。また蔵王原にある古墳の粘土槨から、唐の瑞花八稜鏡や須恵の小壺などを出土。

千田村
せんだむら

[現在地名]東村千田

やしろ川の支流矢武やぶ川上流域に位置し、釜子かまのこ村から金山かねやま(現表郷村)に通じる道沿いに発達した村で、南は堀之内ほりのうち(現同上)、北は栃本とちもと村、東は釜子村、西は形見かたみ村に接する。西にしうち古墳・丹後沢たんごさわ古墳・瀬戸山せどやま古墳・下原しもはら古墳などがあり、各遺跡から土器・管玉・勾玉・直刀が出土している。とくに瀬戸山古墳からは子持勾玉が出土した。字孫八まごはちに南北朝期に結城義綱が居住したという千田館跡がある。義綱は一説では大永四年(一五二四)伊達郡藤田ふじた(現国見町)から移り住んだともいわれ、一族は藤田姓を称している(東村史)。千田の地名は、当地で死亡した源頼朝の家臣千田太郎平常頼にちなむという(同書)。江戸時代初めは会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)以降越後高田藩領で、栃本組に属した。

千田村
せんだむら

[現在地名]長野市稲葉いなば 上千田・中千田・母袋もたい日詰ひづめ

さい川北岸近くにあり、東は大豆島まめじま風間かざま村、西は栗田くりた村・いち村、南は川合新田かわいしんでん村、北は南俣みなみまたと境する。

村名の初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で、「六百七拾九石八斗六升八合 千田村」とある。村の北にふる川、南にごう用水が西から東に流れ、田用水に恵まれている。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に、上千田村、母袋村、日詰村、宮ノ下村の四村の枝村を記している。

慶長以後は松代領であったが、元和八年(一六二二)真田氏が入封の時、村内二三三石六斗余が幕府領になり(信濃国高付)相給の村となった。

千田村
ちだむら

[現在地名]鹿央町千田

東部を北流する千田川が平野へ移る谷口の部分に位置し、東はみや村、西は持松もちまつ村、南はひろ村に接する。聖母しようも(千田)八幡宮を中心に発展した村。奈良から平安期にかけての遺跡である駄の原だのはる遺跡から出土した土師の皿の裏面に残る「千大」の墨書が、「千田」の地名である可能性が強い。同遺跡は「延喜式」の三重みえ駅に想定される。建治二年(一二七六)閏三月八日の左衛門尉菅野兼保請文(石清水文書)にみえる千田庄の遺称地(→千田庄

千田村
せんだむら

[現在地名]木之本町千田

木之本村の南、北境を南西流するあか川左岸平野に立地。北国街道が集落内を通る。中世には伊香庄内石作いしつくり郷に含まれた。文安元年(一四四四)一一月の龍雲寺雑掌申状・妙心寺雑掌申状(妙心寺文書。以下同文書は省略)などによれば、石作郷領家職をめぐり京都南禅寺徳雲とくうん院末寺龍雲寺と黒田くろだ郷を領する京都妙心寺が帰属をめぐり相論。妙心寺では「石作事者黒田郷之内」と主張している。

千田村
ちだむら

[現在地名]多古町千田

水戸みと村の西、多古橋たこばし川沿岸の水田が台地に入り込んだ最深部に位置する。南は上総国武射むしやさかい(現芝山町)、西は同郡上吹入かみふきいれ(現同上)。文久二年(一八六二)の村絵図(千田区有)によると、村の中央部から東部にかけて田があり、南西部には広大な畑が広がる。中世は千田庄に含まれた。天正一九年(一五九一)一一月一三日の香取郡千田庄水帳(越川家文書)によると反別は田二九町二反余(うち上田一町九反余・中田四町三反余)・畑九町四反余(うち上畑四反余・中畑一町余)

千田村
せんだむら

[現在地名]長南町千田

千手堂せんじゆどう村の西に位置し、一宮いちのみや川支流の三途さんず川が流れる。大多喜おおたき往還が通る。地内称念しようねん寺蔵の元亀二年(一五七一)銘鰐口に上総州長南千田称念寺とみえ、鰐口作者は信光で、当時の住持は第一三世の行光であった。史料上は上千田村・下千田村ともみえるが、正保国絵図では千田として高四六〇石。寛文四年(一六六四)の堀直景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、苅谷藩領。

千田村
ちだむら

[現在地名]江津市千田町・島の星町しまのほしちよう

東は島の星山で郷田ごうだ村・千金ちがね村、北は高野たかの山の連山で村・神主かんぬし村と境し、南は阿刀市あといち村および有福ありふく村に接する山間丘陵地の農村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高三〇〇石余、年貢高は田方一四九石余・畑方三〇石余。この年の小物成帳には紙舟役銀一匁八分がある。正保郷帳も同高で、免六ツ四歩。天保郷帳では高四一〇石余と増加する。山間部で行われる砂鉄採取のための鉄穴流しに伴って開かれた棚田の開発による。棚田への灌漑用水確保のため村内に五〇を超す大小の溜池が構築されている。人口は延享三年(一七四六)五〇一人・文化八年(一八一一)五六五人・慶応四年(一八六八)七四三人と増加する(浜田藩跡市組の人口)

千田村
せんだむら

[現在地名]羽咋市千田町

円井つむらい村の東、邑知おうち潟南縁の平地に立地。明応八年(一四九九)一二月二四日の畠山義元判物(気多神社文書)に「千田」とみえ、気多社薬師院領として千田の内に友松名・入連職・光弘名があった。享禄四年(一五三一)七月の一宮惣分目帳案(気多大宮司家文書)によると千田にある三段を六斗四升で紀伊が請負っている。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)には当地居住の禰宜と称する者がみえる。

千田村
せんだむら

[現在地名]千倉町千田

平磯ひらいそ村の南に位置し、東は海に面する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高二四五石余、うち田方一五三石余。里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では給人領。正保郷帳では田高一五一石余・畑高八一石余、旗本田中領(寛永一〇年から)。以後の領主の変遷は川口かわぐち村に同じ。享和元年(一八〇一)の家数一二〇・人数八一四(伊能忠敬測量日記)。天保村高帳では高二四一石余、家数一二三。地先の海域は鰯漁の好漁場で、寛文一三年(一六七三)の一札(山口家文書)によれば、当村をはじめ平磯村・川口村・忽戸こつと村・平舘へだて村・千倉浦の網漁は入会であったが、長狭郡波太なぶと(現鴨川市)の者が請浦をして、入会漁業の権利を得ている。

千田村
せんだむら

[現在地名]足助町千田

足助川の支流菅生すごう川の上流に沿う。東は五反田ごたんだ村、南は上八木うばやぎ村・上垣内かみがいと村・たま村、西は細田ほそだ村、北は平沢ひらさわ村に接する。急峻な谷地形の中を菅生川が南に向かって流れ、右岸に沿って伊那いな街道の坂道が続く。集落は街道沿いの山麓に点在。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。同一五年成瀬家断絶によって幕府直轄地。元禄一一年(一六九八)旗本松平忠成知行地となるが、同一四年再び幕府直轄地。安永七年(一七七八)旗本日向小伝太知行地となり、幕末まで日向家知行地。

千田村
せんだむら

[現在地名]緒川村千田

四方を山に囲まれ、北は油河内ゆごうと村。佐竹知行目録(彰考館蔵)の文禄四年(一五九五)八月一一日に、「七十石せん田の内六十石・大畠の内十石 中田新兵衛」とみえる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「千田村」とある。「水府志料」に「水戸より茂木、烏山への往来也。産物、西野内紙、八寸紙、二束結紙あり」と記され、西ノ内紙が生産された。享和三年(一八〇三)の千田村惣人別分限改帳(「八里村郷土誌」所収)には「紙漉船弐拾壱艘」とある。「八里村郷土誌」には年とともに人口が減少、農村が窮乏していく有様が記される。

千田村
せんだむら

[現在地名]敷島町千田

吉沢きつさわ村の北東、あら川流域にある。慶長古高帳では高二四石余。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳によると高二六石余。年貢は金納であった(宝永二年引渡目録)。文化三年(一八〇六)の書上(中巨摩郡志)によると家数八・人数三四。

千田村
せんだむら

[現在地名]丸岡町千田

玄女げんによ村の南東にあり、丸岡城下の北方竹田たけだ川左岸に位置する農村。枝村として重友・得元・平野があった(越前国名蹟考)。中世は長畝のうね郷に属した。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高四一九・〇一石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報