出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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承天寺
じようてんじ
[現在地名]博多区博多駅前一丁目
臨済宗東福寺派、万松山と号し、本尊は釈迦如来。江戸時代には辻堂町上の東側にあり、北は聖福寺、背後を石堂川(御笠川)が流れる。仁治三年(一二四二)博多居住の宋商人(博多綱首)の謝国明や少弐武藤氏などが開基となり、宋から帰国した円爾を開山として聖福寺の隣地に建立された(聖一国師年譜)。円爾は嘉禎元年(一二三五)に入宋し、宋国五山第一位興聖万寿禅寺(中国浙江省杭州府。通称径山)の無準師範のもとに参じた僧。帰国後は随乗坊湛慧の請いに応じて大宰府横岳に崇福寺を開堂し、その後湛慧の仲介で九条道家と関係をもったことで道家が建立した京都東福寺の開山となり、以後同寺は円爾を派祖とする聖一派の本拠地となった。承天寺の開堂に際しては、径山の無準師範から承天禅寺および諸堂の額や諸牌等の大字が贈られるなど(聖一国師年譜)、寺は宋風で密教性の強い兼修禅を受容する禅院として成立した。
有力な開基檀越である謝国明は、筥崎宮の社領であった那珂郡野間・高宮・原村(平原の誤り。現南区)などを購入し、承天寺領として寄進した(永正一二年九月日「省伯等連署状」省伯和尚認之案文/大日本史料九―五)。謝国明は日宋貿易を展開する有力な宋商人で、径山の無準師範とも面識があり、円爾が修行した径山が淳祐二年(一二四二)に火災によって焼失した時には、円爾に命じられて材木一千本を宋国に送るほどの経済力があった。翌年径山の無準師範が円爾に宛てた感謝状が「板渡しの墨蹟」として残っている(東京国立博物館蔵)。また宝治二年(一二四八)に当寺が火災で焼失した際も謝国明は円爾のため、一日のうちに殿堂一八宇を建立したという(元亨釈書)。謝国明の存在は当寺が創建以来日宋貿易と密接な環境下にあったことを物語っており、当寺を中心とする円爾の勢力は旧勢力から脅威と思われた。寛元元年(一二四三)円爾の禅宗勢力の盛行をねたんだ大宰府有智山寺(現太宰府市)の衆徒が当寺破却を企てたが、朝廷はこれを許さず勅して当寺と崇福寺を官寺とした(聖一国師年譜・元亨釈書)。弘安三年(一二八〇)円爾が定めた八ヵ条からなる規式(同年六月一日「東福寺規式」東福寺文書/鎌倉遺文一八)によれば、当寺は円爾の法房であり、円爾の死後は弟子の白雲慧暁が寺務を伝領するように記されている。
承天寺
しようてんじ
[現在地名]福山市松永町 上之町
松永の東部、承天寺山の中腹にある。吸江山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観音。もと神島村にあった永源寺寂室ゆかりの寺庵を、万治元年(一六五八)本庄重政が菩提寺として福山城下に再興を望み、神島村より移して堂宇を建立、吸江山承天寺と名付けた。重政は松永新涯(塩田)完成後の寛文八年(一六六八)当寺を福山から松永に移し、伽藍を新築し万国を開山とした。寺領として境内山林三反、新涯畑八反が寄進され、また、松永村内に住む者は何宗たるを問わず、ことごとく当寺の宗門となすこととなった(「正徳元年承天寺由緒書控」寺蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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承天寺
じょうてんじ
福岡市博多(はかた)区博多駅前にある臨済(りんざい)宗東福寺派の寺。山号は万松山(ばんしょうざん)。本尊釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。1242年(仁治3)聖一国師(しょういつこくし)円爾(えんに)弁円が宋(そう)より帰朝した際、宋人の謝国明が建立して開山に請じた寺で、1243年(寛元1)勅により官寺となった。盛時には塔頭(たっちゅう)が43院を数え盛大であったが、たびたびの火災で漸次衰退し、今日では4院(宝聚庵、天与庵、乳峰寺、祥勝院)が残るのみである。寺観は衰えたが叢林(そうりん)としていまも著名で、釈迦三尊像、絹本着色禅家六祖像、銅鐘の国重要文化財を蔵する。
[平井俊榮]
『広渡正利著『博多承天寺史』(1977・文献出版)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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承天寺【じょうてんじ】
福岡市にある臨済宗東福寺(とうふくじ)派の寺。本尊釈迦牟尼仏。1242年少弐(しょうに)氏および博多商人射国明などが,弁円(べんえん)(聖一(しょういち)国師)を招いて建立。鎮西における弁円門下の拠点となった。絹本着色禅家六祖像(鎌倉期)・木造釈迦如来及び両脇侍像・銅鐘(清寧11年銘の朝鮮鐘)は重要文化財。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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