小説家。明治32年12月25日、三重県宇治山田で生まれ、神奈川県小田原郊外下曽我(しもそが)(現小田原市内)で育つ。祖父の代までは代々宗我(そが)神社の神官。早稲田(わせだ)大学国文科に学び、山口剛(たけし)の影響を受ける。早くより志賀直哉(しがなおや)の『大津順吉』を読み感動、それ以後作家を志し、志賀への傾倒を深め、終始一貫志賀門の一人としてふるまう。同人誌『主潮』を推進、その後も多くの同人誌に加わる。プロレタリア文学全盛期のときは沈黙、奈良にいた志賀を訪ね、やがて停滞を打ち破って、自己と楽天的な妻をユーモアと苦みの利いた文章で描いた『暢気眼鏡(のんきめがね)』(1933)を発表、1937年(昭和12)単行本刊行の際に芥川(あくたがわ)賞を受ける。
第二次世界大戦末期に胃潰瘍(いかいよう)のため帰郷、下曽我の地で病を養いつつ、第一次「生存五か年計画」をたて、『虫のいろいろ』(1948)を発表、心境小説の代表作となる。客観小説『すみっこ』(1955)は理不尽なものへの怒りが表明されている力作。『まぼろしの記』(1961。野間文芸賞受賞)、『虫も樹(き)も』(1965)も自然と人間との合致への願望が秘められている。『群像』に連載した自伝的回想『あの日この日』(1970~73)は尾崎家物語であるとともに早稲田物語であり、亡き友への鎮魂歌ともなっていて、ふたたび野間文芸賞を受けた。1964年(昭和39)日本芸術院会員、78年文化勲章を受章。昭和58年3月31日、悠々天寿を全うして死去。
[紅野敏郎]
『『尾崎一雄全集』全15巻(1982~85・筑摩書房)』▽『尾崎松枝編『尾崎一雄 人とその文学』(1984・永田書房)』
昭和期の小説家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
小説家。三重県の生れ。早大国文科卒業。神奈川県立二中時代に志賀直哉の《大津順吉》を読んで感動し,作家を志望するようになる。早稲田高等学院時代から作品を書き出すが,初期の作品《二月の蜜蜂》(1925)などに直哉の影響が強い。1927年に大学を卒業するが,勃興するプロレタリア文学に同調できず,小説が書けなくなる。失意と貧困の時代を経て,31年,金沢出身の山原松枝と結婚,作家として再起する契機を得る。生活の落着きとともに,以後《暢気眼鏡(のんきめがね)》(1933)のような誠実な作風で知られる短編が次々と書かれた。37年,第1創作集《暢気眼鏡》に芥川賞が授与され,文壇での地位を確立。戦中戦後の長い病床生活は,この作家の清澄な心境にみがきをかけ,対象を見つめる目をいっそう洗練されたものにし,《虫のいろいろ》(1948),《まぼろしの記》(1961)など,枯淡な筆致による心境小説が生まれた。
執筆者:関口 安義
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…小林秀雄や後の中村光夫《風俗小説論》(1950)(風俗小説)の批判にもかかわらず私小説は盛んに書かれていたのである。その主なものは志賀直哉の系統では滝井孝作《無限抱擁》(1921‐24),尾崎一雄《二月の蜜蜂》(1926),《虫のいろいろ》(1948)など,葛西善蔵の系統では牧野信一《父を売る子》(1924),嘉村礒多(かむらいそた)《途上》(1932)などがある。そして前者を調和型心境小説,後者を破滅型私小説に分ける解釈が後に伊藤整《小説の方法》(1948)と平野謙〈私小説の二律背反〉(1951)によって完成,定着していった。…
※「尾崎一雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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