山名時煕(読み)やまなときひろ

改訂新版 世界大百科事典 「山名時煕」の意味・わかりやすい解説

山名時煕 (やまなときひろ)
生没年:1367-1435(正平22・貞治6-永享7)

室町時代の武将。時義の子。法名常煕(じようき)。1389年(元中6・康応1)将軍足利義満が厳島に参詣した際にはその帰途尾道に迎え,接待する。義満の命で山名氏清,満幸に追討されるが,明徳の乱で氏清らが滅びたあと山名氏惣領となり,但馬守護職を得る。

 応永の乱では和泉の堺城攻撃に一族で活躍し,乱後に備後(常煕),石見(氏利),安芸(満氏)の守護職を与えられ,一族によって防長両国の大内盛見(義弘の弟)を包囲し,盛見とその与党である安芸国人領主層を帰服せしめた。その後,備後,安芸,石見などの国人領主層と関係を深め,1432年(永享4)には将軍義教の富士山遊覧に随行し,大友,少弐氏らの討伐や,それに絡んだ大内持世と持盛の抗争には持世を援助するため分国の軍勢を派遣し,大内氏とも関係を深めた。また同年遣明船を発遣し,翌年には直綴(じきとつ)着用を免許されており,幕閣に高い地位を確立していた。常煕はまた文化人で,父時義が帰依した月庵(げつたん)宗光草創の但馬大明寺を造営し,京都南禅寺に栖真院を建立して月庵門下の大蔭宗松を住せしめ,仲方円伊や惟肖得厳ら当代一流の禅僧らと交流を深めた。彼の和歌は《新続古今和歌集》の撰に入り,漢詩にも長じていた。諡号(しごう)は大明寺殿巨川常煕。なお但馬楞厳(りようごん)寺は正長1年(1428)の常煕自賛の画像を所蔵する。
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朝日日本歴史人物事典 「山名時煕」の解説

山名時煕

没年:永享7.7.4(1435.7.29)
生年:貞治6/正平22(1367)
南北朝末・室町時代の武将。時義の子。宮内少輔,右衛門佐,右衛門督。康応1/元中6(1389)年5月,家督時義の死後いったん家督兼但馬守護に就任したが,室町幕府将軍足利義満は山名氏の弱体化を策して同族の氏清・満幸,細川頼之らに時煕・氏幸兄弟を討たせた。両人は備後に逃げたが同国も細川軍に押さえられ,やむなく上洛して義満に宥免を請うた。この時点で時煕は一切の所帯を失うが,明徳の乱(1391)では幕府方に馳せ参じて氏清らを攻め,乱後但馬守護に復帰を許された。その後,将軍義満・義持に恭順を示し,応永21(1414)年,一族の満時は侍所に就任,分国も但馬,因幡,伯耆の3国に加え,備後,安芸,石見などが与えられ,義持政権下では有力守護の一角に食い込み,幕閣でも宿老として重きをなした。正長1(1428)年義持が死去し,その後継者をくじで決するに当たっては管領畠山満家と共に立ち会いを務め,次の足利義教政権下では管領斯波義淳を凌いで満家と並ぶ最有力宿老として活動している。

(今谷明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山名時煕」の意味・わかりやすい解説

山名時煕
やまなときひろ
(1367―1435)

室町時代の守護。法名常煕(じょうき)。時義(ときよし)の子。大守護勢力削減を意図していた将軍足利義満(あしかがよしみつ)は、1389年(元中6・康応1)の時義没後の惣領(そうりょう)職をめぐる山名氏の内紛に介入、一族の山名氏清(うじきよ)・満幸(みつゆき)らに時煕を討たせた。しかし満幸は義満の意に反し、92年(元中9・明徳3)氏清とともに明徳(めいとく)の乱を起こして敗れ、乱後山名氏惣領となった時煕は但馬(たじま)守護職を得る。応永(おうえい)の乱で和泉(いずみ)の堺(さかい)城攻略で功をあげた時煕は、1401年(応永8)備後(びんご)守護職に補され、翌年には幕府の口入れにより高野山(こうやさん)領同国大田荘(しょう)を年貢1000石で守護請した。かくして時煕は一族の力を背景に将軍にも近侍し、幕閣に高い地位を確立した。また、文化人としての教養も高く、『新続古今集』の撰(せん)に入り、漢詩にも長じていた。諡号(しごう)は大明寺殿巨川常煕。

[田沼 睦]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山名時煕」の解説

山名時煕 やまな-ときひろ

1367-1435 南北朝-室町時代の武将。
貞治(じょうじ)6=正平(しょうへい)22年生まれ。山名時義の長男。山名持豊の父。康応元=元中6年家督をつぐが,守護大名の勢力削減をねらう足利義満(よしみつ)の命をうけた山名氏清・満幸に敗れる。翌年の明徳の乱では幕府方として氏清・満幸を追討,応永の乱でも功をたて,応永21年侍所頭人となる。但馬(たじま),備後(びんご),安芸(あき)の守護を歴任。和歌,漢詩に通じた。永享7年7月4日死去。69歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山名時煕」の意味・わかりやすい解説

山名時煕
やまなときひろ

[生]正平22=貞治6(1367)
[没]永享7(1435).7.4. 京都
室町時代の武将。時義の子。持豊 (宗全) の父。父時義の没後,山名氏一族に内紛が起り,氏清,満幸らによって領国但馬を追われ,備後に逃げた。明徳の乱に際しては,足利義満につき,乱後,但馬,因幡,備後を与えられた。応永5 (1398) 年侍所所司に就任。和歌を好み,『新続古今和歌集』に収められている。

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世界大百科事典(旧版)内の山名時煕の言及

【山名氏】より

…山名氏一族の強大化を警戒していた将軍義満は,この機をとらえて山名氏清・満幸に時義の子時熙(ときひろ)らを攻めさせるが,次には氏清,満幸を討滅する(明徳の乱)。山名時熙(常熙(じようき))は但馬の守護職を与えられ,惣領となる。常熙は,応永の乱には幕府軍の主力として堺城に大内義弘を攻め,乱後は防長両国に拠って幕府に対抗する大内盛見とその与党である安芸,石見の国人領主層を制圧する役割を負い,1401年(応永8)に細川氏に代わって備後守護職を与えられる。…

【山名氏清】より

…南北朝時代の武将。時氏の第4子。丹波・和泉守護。時氏没後,兄の師義が家督を継ぐが,師義も死没して弟時義が惣領となる。1389年(元中6∥康応1)時義が没すると,将軍足利義満は俗に〈六分一衆〉と呼ばれるほど強大化した山名氏の内部分裂を画策し,氏清が生前の時義と不和であったのを利用して,まず氏清,満幸(氏清の女婿)に命じて時義の子時熙(ときひろ),氏幸を討たせ,時熙の分国但馬を氏清に与えるなどした。時熙らは備後に逃れた。…

※「山名時煕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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