地理学者。東京大学地理学科初代の教授であり、京都の小川琢治(たくじ)とともに日本地理学の開拓者。高知県出身。東京帝国大学地質学科卒業。ドイツにおいてラインJohannes Justus Rein(1835―1918)、A・ペンクなどに学び、国際地理学連合、太平洋学術会議などの役員として国際的に活躍した。火山・氷河・地形構造など地形学を発達させたのみでなく、人文・経済・政治地理の研究がある。北アルプス立山には山崎カールとよぶ氷河圏谷が記念されている。東京高等師範学校の教授を兼任し、また日本地理学会を創設。会長として日本の地理学、地理教育の発達に貢献した。学士院会員、東大法科の講義、東宮御学問所の御進講や、関東大震災後の地殻変動の調査など、広く社会的活動を行った。佐藤伝蔵(1870―1928)との共著『大日本地誌』10巻(1903~1915)は日本地誌学の金字塔である。『西洋又南洋』(1926)は優れた地理学旅行記である。多くの論文があり、『山崎直方論文集』2巻(1931)としてまとめられている。
[木内信藏]
地理学を近代科学として位置づけ,国際レベルに高めた日本の代表的地理学者。高知県土佐郡旭村赤石(現,高知市)に生まれ,三高を経て,1895年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業,98年から4年間ドイツに留学,J.J.ライン,A.ペンクら近代地理学の巨匠の指導を受けた。帰国後,1902年東京高等師範学校教授,11年東京帝国大学理科大学教授となり,同大学に地理学講座が開設されるとその担当を兼ね,19年これを地理学科に発展させ,日本の地理学に新時期を画した。大学では地形学と地誌に重点を置き,日本人としては初めて,日本に氷河地形の存在することを指摘し,学界の注目を集めた。火山や地震活動にも新しい見解を提示し,日本の地形学の生みの親となった。一方,地誌では東京高等師範学校の同僚佐藤伝蔵とともに高水準の《大日本地誌》10巻(1903-15)を著作し,これが機縁で17年東宮御学問所で皇太子に地理を講義した。また留学以来,外国地理学者との交流に意を用い,たびたび国際会議に出席して,日本の地理学の地位向上をはかり,22年の国際会議ではIGU(国際地理学連合)の設立に参画,副会長の一人に選ばれた。26年には太平洋学術会議を東京に誘致してみずから主宰者となった。また1925年日本地理学会を創設して初代会長となり,今日の地理学盛行の基礎を築いた。多数の地理学者を養成,地理教育者としても優秀であった。趣味も広く,古地図・錦絵の収集でも知られる。英文・独文も含む多数の論文(没後《山崎直方論文集》(1930,31)として刊行)を発表したほか,《西洋又南洋》(1926)などの著書がある。
執筆者:辻田 右左男
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明治〜昭和期の地理学者 東京帝国大学教授;日本地理学会初代会長。
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(石山洋)
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…以降の村落研究は,村落形態においても時代的変化を織り込んだフランス学派の立場にたった史的追求がなされ,古代末に小村~疎塊村が形成され,それが中世には集村へと移行したとする論に傾いてはいるが,なお永原慶二によって出された中世散居小村論との基本的関係については,今後の重要な検討課題として残されている。 集落地理学としての都市研究は,山崎直方の《わが国市邑の地理的組織》(1904)および《清国の都邑の構造について》(1906)に始まる。都市は村落と異なって構造の意味が多様であり,時代とともに変化してきた。…
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