摂政(せっしょう)宮皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)暗殺未遂事件。1923年(大正12)12月27日、第48帝国議会開院式に臨もうとして摂政宮が虎ノ門に差しかかると、突然難波大助(なんばだいすけ)が宮の乗用車(英国デムラ会社製スペシャル号)に接近し、ステッキ銃で狙撃(そげき)した。弾丸は車の窓ガラスに縦1寸4分、横1寸8分の「不正円形の貫通孔」をあけ、車内天井の左後ろ隅近くの5か所に「示指頭大(ししとうだい)の弾痕(だんこん)」を残し、また車内より弾片5個が発見された。陪席の入江為守(いりえためもり)東宮(とうぐう)侍従長がガラスか弾丸の破片かで軽傷を負ったが、宮は無事であった。時の山本権兵衛(ごんべえ)内閣は責任をとって総辞職し、湯浅倉平(ゆあさくらへい)警視総監も懲戒免官となった。その場で逮捕された難波は、無政府主義に深い影響を受けテロリストになった者であるが、当時の社会運動の組織とはつながりはなかったようである。翌年11月13日大審院で刑法第73条の大逆罪により死刑判決が下され、15日刑が執行された。
[佐藤能丸]
『『特別高等警察研究資料第一 虎ノ門ニ於ケル不敬事件ニ関スル調査』〈極秘〉(1925)』▽『我妻栄他編『日本政治裁判史録 大正』(1969・第一法規出版)』▽『原敬吾著『難波大助の生と死』再版(1980・国文社)』
1923年12月27日午前,帝国議会の開院式に出席する途中の摂政宮裕仁が,東京・虎の門近くで難波大助に狙撃された事件。杖の仕込銃から発せられた弾丸は命中せず,摂政は難を免れた。難波は〈革命万歳〉と叫んでいるところを逮捕され,翌年11月13日死刑を宣告された(15日刑執行)。難波は山口県の大地主で,庚申俱楽部所属の代議士作之進の四男で,三高入試に失敗したころから貧民窟の実情を知り,社会主義的書を読み,また,関東大震災時に起こった大杉栄虐殺(甘粕事件)や亀戸事件に憤激して,テロを行ったという。当時25歳。この事件は,群集の眼前で起こった大逆事件であったため,支配層に異常なショックを与え,時の山本権兵衛内閣は直ちに総辞職した。警視総監湯浅倉平,警視庁警務部長正力松太郎らは懲戒免官となった。また,山口県知事は減俸となり,難波の出身小学校の校長,訓導は辞職し,父作之進は閉門の形式をとって謹慎した。
執筆者:金原 左門
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1923年(大正12)12月27日の虎の門での摂政裕仁(昭和天皇)暗殺未遂事件。山口県選出の代議士難波作之進の四男大助は早稲田高等学院に入学したが中退。この時期社会主義思想に開眼し,テロリズムに共感。病気で帰郷中におきた関東大震災時の諸事件で反天皇思想を固め,摂政暗殺を決意。父の杖銃を持ち出して上京。議会開院式に向かう摂政の車を虎の門で待ちうけ,10時40分頃狙撃したが失敗。直ちに逮捕され,翌年11月13日死刑の判決をうけ,15日処刑された。この事件で山本権兵衛(ごんべえ)内閣は総辞職。父は代議士を辞職し,蟄居(ちっきょ)閉門中死去した。
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