山王村(読み)さんのうむら

日本歴史地名大系 「山王村」の解説

山王村
さんのうむら

[現在地名]栄町山王

嵐南平野部の村で、東は帯織おびおり村、西北曾根そね村と接する。村の西側日枝神社付近からは中世の珠洲系陶質土器が出土。近世初期に成立した新田村で、正保国絵図にもみえ、元禄郷帳には高二一四石九升余、「帯織村枝郷古帯織新田村申候」とある。新発田藩分家溝口宣知の知行所で、寛永一三年(一六三六)では一六九石二斗六升「帯織村之内新田」とある(「御知行所草高之御帳」新発田市立図書館蔵)


山王村
さんのうむら

[現在地名]前橋市山王町

那波なは郡に属し、東を広瀬ひろせ川の分流にら川が南東流し、北と東は勢多せた下大島しもおおしま村、南は東善養寺ひがしぜんようじ村、西は両家りようけ村・矢田やた村。もと東善養寺村と一村で、慶安年間(一六四八―五二)分村して山王村と称したという。日枝神社参道に沿って集落がある。元禄郷帳に高四四三石八斗とあり、前橋藩領。文政四年(一八二一)の善養寺領の年貢減免越訴事件では、当村の組頭万吉・長百姓粂七・小前栄蔵が入牢させられている(「勧農教訓録」林文書)


山王村
さんのうむら

[現在地名]結城市山王

上山川かみやまかわ村の南に位置。東を鬼怒きぬ川が南流。南を通る街道は大木おおき村を経て日光東街道に接続。字山王の日枝ひえ神社北方に十三じゆうさん塚とよばれる古墳群があったが、昭和初期の鬼怒川改修工事に際し、堤防用土として土取りされて消滅。この時勾玉・直刀・剣などが出土したという(村乃歴史)

永禄八年(一五六五)または九年とされる山川氏重等連署寄進状写(結城寺文書)に「上山川之内山王内寺野田間 かす(れ)うへなし合而五十貫文」とあり、天正一八年(一五九〇)九月の山川晴重宛の豊臣秀吉宛行状(山川修二文書)に「かねかつゝミ」とあるのは村内の小字かねつつみである。


山王村
さんのうむら

[現在地名]中条町山王

日本海に沿う砂丘の内陸東側にあり、東をほり川が流れる。南は高田たかだ村、東南は赤川あかがわ村に接する。村名は鎮守山王権現(現日枝神社)に由来するという。万治二年(一六五九)検地帳(佐藤悌吉氏蔵)によれば田二町五反九畝余・畑屋敷一町二反一畝余・新田四反四畝余で、名請人は五名。元禄郷帳には「赤川村枝郷」と記される。初め村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内帳(高橋哲也氏蔵)では家数二四・人数一一〇・馬二。天保九年(一八三八)には新田六町七反五畝余(「巡見使案内帳」大沼安在氏蔵)


山王村
さんのうむら

[現在地名]多賀城市山王

新田にいだ村の東、高橋たかはし村の北に位置し、七北田ななきた川によって形成された自然堤防と後背湿地上に立地。留守分限帳(留守文書)の「御館之人数」に「村岡孫左衛門、二千六百五十苅、一貫二百地、かひ地千かり、山王より一貫五百文」とあり、「里之人数」のさ藤彦さへもんの条に「さんのうさいけ」とある。正保郷帳によれば田九一貫三五三文・畑六貫四三五文、旱損の注記がある。ほかに新田三貫五五一文。塩釜町方留書(佐藤正雄家蔵)によると、正徳(一七一一―一六)以前塩竈村から山王村へ田五五貫八〇七文・畑一貫一八〇文(反別計四三町六反余)の入作があったが、その後だんだんと山王村民の手に渡されていった。


山王村
さんのうむら

[現在地名]藤代町山王

小貝こかい川南岸に所在。東北は配松はいまつ村。相馬二万石の一部で、「寛文朱印留」には下総佐倉藩領として村名がみえる。寛政二年(一七九〇)の地頭性名村高控帳(国立史料館蔵飯田家文書)によれば伊勢八田藩領一三二・九七九石、旗本吉川氏知行地・鈴木氏知行地ともに四三八・三七二石、小笠原氏知行地三六五・二九五石の四給支配。嘉永三年(一八五〇)の岡堰三拾弐ケ村組合田畑反別控帳(同文書)によると田一一四町余、畑四八町余。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には小笠原知行地三六五石余、鈴木氏・吉川氏知行地ともに四三八石余、上総一宮藩(八田藩が移封したもの)領一三三石余。


山王村
さんのうむら

[現在地名]上志比村山王

九頭竜くずりゆう川中流域の左岸の平地部に位置し、大月おおつき村の北にある。南部を勝山街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「志比上之庄」に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方一三二石余・畠方三〇〇石余。寛永元年(一六二四)福井藩領から大野藩領となるが、貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」には幕府領とあり、一時期、幕府領となったと思われる。


山王村
さんのうむら

[現在地名]朝日町山王

北・東・西は藤塚ふじづか村、南は細野ほその村。村名は比叡山の山王社の別社を勧請したことに由来するという(下新川郡史稿)。山王社は山崎やまざき村に移転し、故地は古宮ふるみやとよばれている。基盤整備事業による換地で、山王地内は現在四囲をすべて藤塚に囲まれている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二二石、免五ツ五歩(三箇国高物成帳)


山王村
さんのうむら

[現在地名]五霞村山王

現利根川南岸に所在。村域には沼地・湿地帯があり、常に水気に被われる感がある。西は山王山さんのうさん村。

江戸時代は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえる。寛文一一年(一六七一)の関宿領茂右衛門御代官場石高覚帳(松本好司文書)には本高八六・二〇五石のほかに一〇・五五六石があり、合計村高九六・七六一石。天保九年(一八三八)の葛飾郡五拾四ケ村組合諸商渡世向取調書上帳(同文書)では村高九六・七五八石。


山王村
さんのうむら

[現在地名]美浦村山王

谷中やなか村の東南に位置する。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は一三五石余。幕末は旗本坂本小左衛門領一七石余、坂本鎹之助領一二石余、曲淵氏領四四石余、山田氏領六一石余(各村旧高簿)

村域の西側に椎・竹林に囲まれた日枝ひえ神社がある。


山王村
さんのうむら

[現在地名]江南市山王

前野まえの村の南西にあり、村の西境を青木あおき川が流れ、沼があった。沼の東岸に人家が集中していた(天保村絵図)。「徇行記」によれば、概高五四石余で蔵入地。畑六町五反四畝余、新田一石二斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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