岩倉城跡(読み)いわくらじようあと

日本歴史地名大系 「岩倉城跡」の解説

岩倉城跡
いわくらじようあと

[現在地名]倉吉市岩倉 明谷山

岩倉集落の南東側に位置する標高二四七メートルの明谷みようだに山の山上にあり、小鴨おがも城ともよぶ。築城年代は不詳であるが、小鴨氏累代の居城であった。小鴨氏は治承・寿永の内乱期に平氏与力としてその名がみえる基保(基康)が小鴨介を称しており、久米くめ郡小鴨郷を拠点とする在庁官人の系譜を引く武士と考えられる。平安末期には紀氏と伯耆国を東西に二分する勢力を競い、小鴨氏が大山中門ちゆうもん院月光坊の旦那であったことから同院と南光なんこう院の対立も絡んで、両氏は所々に城郭を構え合戦が絶えなかったという(大山寺縁起)。治承元年(一一七七)二月二二日には基保らが「ツホカミ山」(壺瓶山、現淀江町)で原田家平を討取っている(「原田氏系図」原田家蔵)。養和元年(一一八一)二月二八日、紀姓村尾氏によって月光坊の法弟鏡明房を討たれたため、小鴨氏は村尾氏の主だった兵一〇余人を殺したという(大山寺縁起)。この復讐のためか、寿永元年(一一八二)出雲・石見・備後などの国々の武士を巻込んで伯耆国で紀成盛と基保とが合戦、基保が追落されている(「吉記」同年八月二〇日条)。同三年には後白河院皇子を名乗る者が反平氏を唱え、三徳みとく(現三朝町)に挙兵して伯耆半国を制圧したが基保は従わず(「玉葉」同年二月二日条)、同年二月の一ノ谷の合戦で平家方について戦った者のなかに「伯耆ニハ、小鴨介基康」とみえる(源平盛衰記)

岩倉城跡
いわくらじようあと

[現在地名]脇町 西田上

岩倉地区の東部、標高一一一・三メートルの台地上に位置し、東方の脇城は当城の脇にあったのでその名が付けられたともいわれる。文永四年(一二六七)に三好氏の祖小笠原長房が築城したとの伝えがあるが(古城諸将記)、根拠のほどはあいまいで、詳しいことはわかっていない。戦国時代には三好之長の四男と伝えられる三好山城守康長(笑岩)が居城していた。永禄元年(一五五八)三好長慶が将軍足利義輝らと戦ったとき、康長は先陣として芥川あくたがわ(現大阪府高槻市)で長慶と会い、のち摂津尼崎に在陣した(足利季世記)。同五年三月、泉州久米田くめだ(現大阪府岸和田市)の合戦で三好義賢を助けて畠山高政勢と戦ったが、義賢が討死して敗れ、阿波に帰国(同書)、この折剃髪して笑岩と号したと伝える。同年五月、義賢の弔い合戦に河内教興寺きようこうじ(現大阪府八尾市)に高政を破って高屋たかや(現同府羽曳野市)に入った(同書)。その後当城は康長の子徳太郎が守っている(古城諸将記)

天正七年(一五七九)徳太郎は土佐の長宗我部氏に降伏、同年一二月の脇城外の戦いでは脇城主武田信顕と共謀して元親に協力、三好方の主力を全滅させている(三好記・昔阿波物語)

岩倉城跡
いわくらじようあと

[現在地名]岩倉市下本町

天保一五年(一八四四)の下市場家並絵図(伊藤重左衛門氏蔵)によれば「古城跡」の周囲は畑で、その東南と東北に丘陵が描かれている。畑地の北・東・南は田地で、田の南辺にはおさな(五条川)に注ぐ水路も描かれている。小字名「城跡」の中央に安政七年(一八六〇)建碑の「織田伊勢守城址」の巨大な石碑がある。庄屋留書(柴田忠義氏蔵)に「織田伊勢守居城址之儀、是迄石碑は無之、塚計り御座候処、今般、名古屋巾下石工山本屋和吉と申者にて出来申候、諸入用金並ニ人足之儀六ケ組惣割ニ御座候、併御上様ヘハ御願不申出来仕候」とあって、費用は石碑代金一両二分、台石代金二分、車力銭金一分二朱、丸石代・丸石仕組代金三分、柳沢維賢染筆礼金一分、計金三両一分二朱。

岩倉城跡
いわくらじようあと

[現在地名]小松市原町

滓上かすかみ川上流で上麦口かみむぎくち町とあらし町の間の北側丘陵上(標高約二八〇メートル)に所在し、沢米佐衛門館跡とも称する。尾根筋に立地する城跡は長さ一〇〇メートル程度の小規模な連郭式であるが、平坦面(郭)や土塁は良好な状態で残る。五ヵ所ほどの郭からなるが、全域を幅三―五メートル、高さ約四メートルほどの大規模な土塁で固めており、さらに腰郭がめぐらされる。全長七三・五メートル、最大幅二三メートルの主郭の南側に枡形状の大手門があり、主郭の一端には長軸長さ八メートル、短軸長さ四メートル、高さ五メートルの櫓台状の施設がある。

岩倉城跡
いわくらじようあと

[現在地名]橋本市隅田町垂井

岩倉池の南の小高い丘陵地に位置し、隅田党の本城といわれる。築城時期は定かでない。「畠山記」は永正一六年(一五一九)三月高野山僧徒が岩倉城に立てこもる隅田一族と領分について戦ったことを記しており、城が永正以前に築かれていたことは確かである。鎌倉時代以降、隅田すだ庄を中心に活躍した武士団隅田党は、隅田八幡宮を氏社として団結を強めた。隅田党は二五家ないし二九家からなり、中心の隅田氏は平安末期から鎌倉時代にかけて隅田庄の公文職および地頭職となっている。元弘元年(一三三一)一族の頭領隅田治郎左衛門通治は六波羅探題の検断となり、六波羅探題が足利尊氏に滅ぼされると、南朝に味方したので、隅田惣領家は滅亡した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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