日本歴史地名大系 「岩倉城跡」の解説
岩倉城跡
いわくらじようあと
岩倉集落の南東側に位置する標高二四七メートルの
岩倉城跡
いわくらじようあと
岩倉地区の東部、標高一一一・三メートルの台地上に位置し、東方の脇城は当城の脇にあったのでその名が付けられたともいわれる。文永四年(一二六七)に三好氏の祖小笠原長房が築城したとの伝えがあるが(古城諸将記)、根拠のほどはあいまいで、詳しいことはわかっていない。戦国時代には三好之長の四男と伝えられる三好山城守康長(笑岩)が居城していた。永禄元年(一五五八)三好長慶が将軍足利義輝らと戦ったとき、康長は先陣として
天正七年(一五七九)徳太郎は土佐の長宗我部氏に降伏、同年一二月の脇城外の戦いでは脇城主武田信顕と共謀して元親に協力、三好方の主力を全滅させている(三好記・昔阿波物語)。
岩倉城跡
いわくらじようあと
天保一五年(一八四四)の下市場家並絵図(伊藤重左衛門氏蔵)によれば「古城跡」の周囲は畑で、その東南と東北に丘陵が描かれている。畑地の北・東・南は田地で、田の南辺には
岩倉城跡
いわくらじようあと
岩倉城跡
いわくらじようあと
岩倉池の南の小高い丘陵地に位置し、隅田党の本城といわれる。築城時期は定かでない。「畠山記」は永正一六年(一五一九)三月高野山僧徒が岩倉城に立てこもる隅田一族と領分について戦ったことを記しており、城が永正以前に築かれていたことは確かである。鎌倉時代以降、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報