幕末、明治期の浄土真宗本願寺派の僧。幼名謙致(けんち)。益渓(えきけい)、縮堂(しゅくどう)、雨田(うでん)、北峯(ほくほう)、六六道人(ろくろくどうじん)と号した。周防(すおう)国佐波(さば)郡和田村(山口県周南(しゅうなん)市)専照寺、清水円随(しみずえんずい)(本願寺派勧学)の四男に生まれ、のち同派の島地村(現、山口市徳地(とくぢ)島地)妙誓寺に入寺して島地姓となる。幼くして萩城学校に学び、肥後(熊本県)光照寺の原口針水(はらぐちしんすい)(1808―1893)に師事して真宗学、仏教学を学んだ。1866年(慶応2)春、大洲鉄然(おおずてつねん)と謀り、萩(はぎ)に学校を設けて長門(ながと)・周防の真宗寺院の徒弟を教育する。1868年(明治1)上洛(じょうらく)して本派本願寺の改革を建議し、1871年東京・神田今川小路に日新堂を開き『新聞雑誌』を刊行。1872年1月梅上沢融(うめがみたくゆう)(1835―1907)に従って渡欧し、海外の宗教事情を視察し、7月に帰国。1873年神仏合同大教院分離運動に着手し、大教院を崩壊に導く。本派本願寺の執行長(しぎょうちょう)を務める一方、1888年女子文芸学舎(千代田女学園の前身)を開設。また、日本赤十字社の設立に参与した。著書に『三国仏教略史』全3巻、『仏教各宗綱要』がある。
[池田英俊 2017年7月19日]
『千代田女学園編・刊『島地黙雷上人』(1960)』▽『『島地黙雷全集』全5巻(1973~1978・本願寺出版協会)』▽『川村覚昭著『島地黙雷の教育思想研究――明治維新と異文化理解』(2004・法蔵館)』
真宗西本願寺派の政僧。周防国(山口県)和田村専照寺に生まれ,28歳で島地村妙誓寺に入寺した。1866年(慶応2)大洲鉄然(おおずてつねん)とともに萩に改正局を設け防長2州の真宗子弟の教育に当たり,68年(明治1)赤松連城らと西本願寺改革を建議,奏功した。72年本願寺連枝梅上沢融らとヨーロッパを視察し翌73年帰朝したが,留守中に政府が国民指導原則として推進していた〈三条教則〉の批判を建白し,神道的な教導職養成機関大教院からの仏教各宗離脱運動を進めた。93年本山執行長となった。一方71年《新聞雑誌》を,74年大内青巒と《報四叢談(ほうしそうだん)》を発行して僧侶の教導に努めるとともに,東京に白蓮社(1875),女子文芸学舎(1888,千代田女学園の前身)などを設立し教育事業にも力を尽くした。1905年盛岡市願教寺へ入寺した。著書に《島地黙雷全集》5巻がある。
執筆者:柏原 祐泉
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1838.2.15~1911.2.3
幕末~明治期の宗教家。幼名謙致。浄土真宗本願寺派の僧侶。周防国の僧侶の子。養家を出奔して肥後・安芸両国で学び,帰藩後は大洲鉄然(おおずてつねん)らの宗風改革運動に加わる。明治初期に上洛し,宗門改革に参加。廃仏毀釈に抵抗し,寺院寮や教部省の開設運動に奔走。渡欧後に信教の自由を訴え,真宗の大教院分離運動を推進,政府の国民教化政策を瓦解させた。のち各地への布教活動に邁進。
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