島津家久(読み)シマヅイエヒサ

デジタル大辞泉 「島津家久」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐いえひさ〔‐いへひさ〕【島津家久】

[1576~1638]安土桃山・江戸初期の武将。薩摩藩主文禄の役慶長の役に従軍。慶長14年(1609)琉球を平定して薩摩に帰属させた。

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精選版 日本国語大辞典 「島津家久」の意味・読み・例文・類語

しまづ‐いえひさ【島津家久】

  1. 安土桃山・江戸初期の武将。薩摩藩主。義弘の三男。初名、忠恒(ただつね)。文祿・慶長の役に従軍し、功を立てる。のち琉球を攻めて支配下におく。天正四~寛永一五年(一五七六‐一六三八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津家久」の意味・わかりやすい解説

島津家久
しまづいえひさ
(1576―1638)

安土(あづち)桃山時代~江戸初期の武将。天正(てんしょう)4年11月7日生まれ。父は島津義弘(よしひろ)。幼名を米菊丸(よねぎくまる)、初名を忠恒(ただつね)、通称を又八郎(またはちろう)という。1606年(慶長11)前将軍家康より「家」の字を得て家久となる。文禄(ぶんろく)の役で兄久保(ひさやす)が没し家督継承者と決まり、渡海、軍功があった。1599年義久より家督を相続し、伏見(ふしみ)で伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を討ち、伊集院忠真(ただざね)らの庄内(しょうない)の乱を鎮圧し、1600年関ヶ原の戦いで西軍方となった父義弘の弁護に努め、1602年家康から領国を安堵(あんど)され、鹿児島に鹿児島城を築き本城とし、島津藩(鹿児島藩)の創業に成功した。1609年琉球(りゅうきゅう)を従え、1624年(寛永1)には自ら藩主妻子を江戸居住とした。寛永(かんえい)15年2月23日没。墓は鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。

[三木 靖]

『山本正誼編『島津国史』(1972・鹿児島県地方史学会)』

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朝日日本歴史人物事典 「島津家久」の解説

島津家久

没年:寛永15.2.23(1638.4.7)
生年:天正4.11.7(1576.11.27)
江戸初期の武将,薩摩(鹿児島)藩主。島津義弘の3子。文禄2(1593)年家督を継ぐ。はじめ忠恒を名乗った。慶長11(1605)年6月17日,徳川家康の偏諱を与えられ家久と名乗ることを許されるとともに,琉球出兵を認められる。それより3年後の同14年3月に兵3000人余の出兵を敢行,5月国王尚寧を虜として帰る。翌15年から同16年にかけて琉球への検地の断行,奄美大島,徳之島,沖永良部島,喜界島,与論島の奄美5島の直轄化をはかり,寛永8(1631)年には藩財政の窮乏を打開するために琉明貿易に介入するなど,琉球支配を積極的に進めた。一方,領内においても慶長16(1611)年に検地を実施し,戦時に備える外城制度を整備するなどして,藩政の基盤確立に努めた。<参考文献>秀村選三,桑波田興「外様藩政の展開‐薩摩藩」(『日本歴史』10巻),上原兼善「琉球王朝歴史」(『海と列島文化』6巻)

(上原兼善)


島津家久

没年:天正15.6.5(1587.7.10)
生年:天文16(1547)
安土桃山時代の薩摩(鹿児島県)の武将。貴久の4男。中務大輔。伊作島津氏の南九州3国領国形成に従事し,元亀1(1570)年に薩摩北部の渋谷氏一族を攻略,隈城,串木野を領した。天正3(1575)年には,伊勢参宮の目的で上洛。帰国後は日向(宮崎県)の伊東氏の攻略に当たり,守護代となり,佐土原を居城とした。その後,豊臣秀吉の九州平定に際して,豊臣秀長への佐土原の譲渡を拒み毒殺されたと伝えられている。島津家中の文人樺山玄佐から古今伝授を受けたり,連歌師里村紹巴と交流を持つなど,文人としても知られる。<参考文献>新城常三編『(近世初頭)九州紀行記集』(九州史料叢書)

(福島金治)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津家久」の意味・わかりやすい解説

島津家久
しまづいえひさ

[生]天正6(1578).鹿児島
[没]寛永15(1638).2.23. 鹿児島
安土桃山~江戸時代初期の武将。薩摩藩主。義弘の3男。幼名は米菊丸,又八郎,初名は忠恒。文禄3 (1594) 年家督を継ぐ。泗川の戦い (98) に功があった。慶長4 (99) ~5年老臣伊集院忠棟 (幸侃) 父子を誅し領内を鎮定,同7年鹿児島城 (鶴丸城) を構築,城下に市街を発展させ,外城 (とじょう) 制度など藩内に多くの施策をなした。この間,アンナン (安南) ,ルソン (呂宋) ,明とも交易し,同 14年幕府の許可を得て琉球に出兵,これを薩摩藩の付庸 (従属国) とし,奄美群島を直属地とした。同 11年将軍徳川家康から諱を与えられ,家久と改名。

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改訂新版 世界大百科事典 「島津家久」の意味・わかりやすい解説

島津家久 (しまづいえひさ)
生没年:1576-1638(天正4-寛永15)

安土桃山時代・江戸初期の大名。戦国大名島津義弘の三男。初名忠恒。徳川家康の1字を受け家久。従三位権中納言。法号慈眼。文禄・慶長の役で活躍,関ヶ原の戦後家康との交渉にあたり,西軍方の島津氏の地位保全に成功,外様大名として73万石を安堵された。慶長内検の実施,琉球征覇,藩主の妻子の江戸在府,有勢家臣の統制など近世薩摩藩の基盤作りに意を用いた。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「島津家久」の意味・わかりやすい解説

島津家久【しまづいえひさ】

江戸初期の武将。島津義弘の三男。鹿児島藩主。父と共に文禄・慶長の役に参戦。1609年には琉球を侵略。近世鹿児島藩の基盤を確立した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津家久」の解説

島津家久(2) しまづ-いえひさ

1576-1638 織豊-江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)4年11月7日生まれ。島津義弘の3男。慶長の役に父とともに出陣。慶長7年(1602)徳川家康から本領をみとめられ,薩摩(さつま)鹿児島藩主島津家初代となる。14年琉球に出兵し薩摩の付属地とし,奄美(あまみ)諸島を直轄領として所領72万8700石となる。鹿児島城をきずき,領内の外城(とじょう)制を整備した。寛永15年2月23日死去。63歳。初名は忠恒(ただつね)。通称は又八郎。

島津家久(1) しまづ-いえひさ

1547-1587 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)16年生まれ。島津貴久(たかひさ)の4男。兄義久,義弘をたすけ,島津氏の九州平定につとめ,日向(ひゅうが)(宮崎県)佐土原(さどはら)を居城とする。豊臣秀吉の九州攻めの際,豊臣秀長に降伏。佐土原の引き渡しをこばんだため,天正(てんしょう)15年6月5日秀長陣所で毒殺されたという。41歳。通称は又七郎。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津家久」の解説

島津家久
しまづいえひさ

1576.11.7~1638.2.23

江戸初期の大名。鹿児島藩初代藩主・島津家18代当主。日向国生れ。島津義弘の三男。初名又八郎忠恒。少将・中納言に叙任。陸奥守・薩摩守・大隅守を称する。1599年(慶長4)3月伊集院忠棟を破り,その子忠真の庄内の乱を鎮圧した。1609年3000人余の軍勢を送って琉球を侵略,徳川家康から琉球を与えられた。翌年8月琉球国王尚寧(しょうねい)を駿府(現,静岡市)・江戸に伴っている。

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367日誕生日大事典 「島津家久」の解説

島津家久 (しまづいえひさ)

生年月日:1576年11月7日
安土桃山時代;江戸時代前期の大名
1638年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の島津家久の言及

【島津氏】より

…鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。…

【関ヶ原の戦】より

…一方,会津に帰国した上杉景勝は城の修築や道路の補修など領内の整備に努めたが,このことは当時は一般に戦争の準備と受けとられた。
[戦の経過]
 家康は1600年4月,使者を派遣して弁疏のために上洛するよう景勝に要求し,他方では上洛拒絶に備えて諸大名に会津攻めの動員令を下し,島津家久に伏見城の留守を命じた。景勝は上洛を拒絶し,家康は福島,池田,細川,黒田,浅野,加藤(嘉明),藤堂,山内などの諸大名を率いて東下し,7月21日江戸を出陣し,同24日下野小山で三成挙兵の報に接した。…

【琉球】より

…こうして16世紀末期には,日本との関係がにわかに緊張するようになった。
[島津侵入事件と琉球]
 関ヶ原の戦(1600)により天下を手中にした徳川家康は江戸に幕府を開いて強力な封建国家(幕藩制国家)を樹立したが,薩摩藩主島津家久は,かねてよりの琉球の無礼を正すという名目で琉球出兵を家康に願い出,許可された。1609年(慶長14)薩摩軍3000余は戦意のうすい琉球に侵入しこれを征服した。…

【琉球征服】より

…すなわち,06年3月島津氏は琉球の奄美大島に侵攻する大島入(おおしまいり)の談合をもった。これは前年8月15日,肥前平戸の松浦氏が7月28日幕府から同地に漂着した琉球船の送還と懸案の来聘問題で琉球の打診を命じられたと島津氏に通報したことが,島津家久と父の義弘にこれまでの対琉球関係を維持するために来聘問題解決の手段としての武力行使を決意させたからである。しかし談合は義弘の兄義久と談合衆のサボタージュにあって不調で,家臣団は外征に消極的だった。…

※「島津家久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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