川口町(読み)かわぐちまち

日本歴史地名大系 「川口町」の解説

川口町
かわぐちまち

[現在地名]花巻市上町かみちようなど

花巻三町の一町で、慶長一八年(一六一三)里川口さとかわぐち村内に開かれたという。花巻城の南側を通る奥州街道沿いに東西に延びる町で、文化―文政(一八〇四―三〇)の花巻城郭図(花巻市史)によると、川口町の北に東西に延びる士屋敷のなか(仲)小路があり、さらに北の外堀の南側に同じく西片平にしかたぴら小路、東方に東片平小路がある。川口町の東にしも町、奥州街道沿いに西に向かうと上町があり、同街道を南に向かうと豊沢とよさわ町が続く。下町との境辺りから南にうら町が延びる。川口町の南側に並行する通りと上町を結ぶ通りに大工だいく町があり、上町西端辺りから大堰おおぜき川を西に越えた奥州街道の西側に北からしん町・鍛冶かじ町・川原かわら町が東西に延びる。裏町の東側に安俵あひよう高木たかき通代官所、大工町の西側に二子ふたご万丁目まんちようめ通代官所がある。奥州街道を上町で折れて北に進むと吹張ふつぱり町、木戸を越えると吹張御組が続き、豊沢町から南進して豊沢川を渡ると向御組がある。下町を東に進んだ木戸の東に士屋敷の御田屋おたや小路が延び、木戸を通って里川口村から高木村小舟渡こぶなとに続く。

「邦内郷村志」によると家数六四八・人数二千六八五、組同心三八、竈数七一。産物は片栗粉・菎蒻・蓴菜・ヲコシ。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数四五五軒のうちとして駅場川口町二〇八、枝町吹張町五二・新町七七・鍛冶町四三・大工町二九・裏町四六が記される。上町・下町は寛文三年(一六六三)には成立していた八日ようか町の地内であったが、のち上・下に分れ、さらに上町・下町と称されるようになった。鍛冶町は貞享四年(一六八七)頃には成立しており、安政六年(一八五九)の火事では一五〇軒が焼失した。明和五年(一七六八)の火事では大工町が全焼したという。

川口町
かわぐちまち

[現在地名]川口市本町ほんちよう一―四丁目・金山町かなやまちよう幸町さいわいちよう一―三丁目・栄町さかえちよう一―三丁目・舟戸町ふなとちよう・川口一―四丁目・河原町かわらちよう

現市域の南端にあり、町の南側を東流する荒川と東端を南流するしば川が合流する扇の要に位置する。南は荒川を隔てて豊島としま岩淵いわぶち宿(現東京都北区)など、東は芝川を隔てて元郷もとごう村・十二月田しわすだ村、西は飯塚いいづか村、北は横曾根よこぞね村。河川の流路跡または自然堤防が断片的ながら分布していることから、集落は河川の氾濫などによってできた微高地に形成されたと思われる。日光御成道の宿駅で、荒川の岩淵宿との間に川口渡があった。治承四年(一一八〇)源義経は兄頼朝の軍勢に合流するため奥州平泉から駆付けてくる際、「足立郡小川口」を通過したという(「義経記」巻三)。また正応二年(一二八九)一二月に二条(大納言源雅忠の女)は河越入道後家尼に招かれて「こかハくち」にしばらく滞在している(とはずがたり)古利根川に面した川口(現加須市)よりも当地の渡船場が小さかったため「小川口」とよばれたという。入間いるま(現荒川)の対岸には遊女たちのいる岩淵宿があり(同書)、「小川口」が街道沿いの交通の要衝に位置していたことがうかがえる。延徳三年(一四九一)印融は弟子の所望により「武州足立郡河口錫杖寺」で「諸尊表白抄」(京都醍醐寺蔵)を著している(同書第一奥書)。元亀三年(一五七二)には「廿一貫七十文 川口」が宮城四郎兵衛尉泰業の所領であった(正月九日「北条家印判状」豊島宮城文書)

田園簿では田五四六石余・畑一九五石余で、幕府領。ほかに錫杖しやくじよう寺領二〇石がある。慶安二年(一六四九)八月善光ぜんこう寺阿弥陀堂に対して朱印一〇石が与えられている(「徳川家光朱印状」同寺蔵)。江戸時代を通じて幕府領であった(田園簿・改革組合取調書など)。元禄一〇年(一六九七)検地帳(永瀬家文書)によると高六五九石余、うち田四一三石余・畑二〇三石余・屋敷四一石余。

川口町
かわぐちまち

面積:四九・五三平方キロ

信濃川と魚野うおの川の合流点付近の町部と川の北と南へ延びる山地の集落よりなる。両河川とも町域に入って蛇行し、西方へ流下する。北は小千谷おぢや市、西は小千谷市・十日町市、南は十日町市、東は堀之内ほりのうち町。道は魚野川右岸沿いに三国街道(現国道一七号)、合流点にあたる左岸の西川口からは、支流相川あいかわ川沿いに南へ十日町へ至る道、三国街道を川口から分岐して北方古志こし山古志やまこし村へ至る道とがある。近世以前は、古志郡に属した北部の木沢きざわとうげを除いて、上川かみかわ郷に属した。この名称は、藪神やぶかみ地域における最上流にあたるために付された名称と考えられ、その範囲は、小千谷市の岩沢いわさわ川井かわい地方、堀之内町の新道島しんどうじまを含む。

川口町
かわぐちまち

[現在地名]博多区上川端町かみかわばたまち

西の新川端町上しんかわばたまちかみから続き石堂いしどう(御笠川)西岸の西門さいもん口へ至る東西道に沿う両側町。東は土居町上どいまちかみ・土居町中の通り。新川端町上との境に妙行みようぎよう寺がある(福岡博多近隣古図・筑前名所図会)。土居川口町とも記される(「続風土記拾遺」など)。元禄三年(一六九〇)の家数三五(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数三三・間数八〇間余(石城志)。慶応二年(一八六六)の家数三〇(博多店運上帳)

川口町
かわぐちまち

[現在地名]水沢市 川口町・立町たつまち

町人町水沢六町の一。立町西端から屈曲して北に向かう奥州街道の両側町で、北は家中小路不断ふだん丁に続く。寛永一八年(一六四一)の塩竈村検地帳(県立図書館蔵)しん町とみえるのが当町で、屋敷数一七。屋敷地は一七軒とも五畝歩が割当てられており、他町に比べて統一されているので、留守氏が新に町割して新町と称したものと推定される。延宝年間(一六七三―八一)にはとおり町・河内かわうち町とも称されていたが(水沢市史)、元禄一〇年(一六九七)の記録(菅原文書)には川口町とみえ、以後この名称が定着した。検断は置かれず常に立町検断が兼ねたので、立町の枝町といえよう。

川口町
かわぐちちよう

[現在地名]大津市浜大津はまおおつ二―四丁目

西山にしやま町の西にあり、寛保二年町絵図では荷揚場の川口関の東側に川口町、西側に西川口と記す。町名は商人川口弥蔵家に由来するとされる。「輿地志略」によれば当町より中保なかほう町へ出る辻を志賀屋辻しがやのづしという。享保六年(一七二一)の三井寺中門前境内帯刀人数覚(園城寺文書)によれば、園城おんじよう寺各坊の家来が当町に居住していた。町通りの北側に米蔵の甲府蔵(甲斐甲府藩)があった。川口弥蔵家は宝永四年(一七〇七)頃には荷問屋を営み、明和期(一七六四―七二)には米・油などの問屋を兼営していたという(大津市志)

川口町
かわぐちまち

[現在地名]土浦市川口一―二丁目

土浦城の南東に位置する。霞ヶ浦・旧桜川の水運の発達によって開けた町屋で、享保一二年(一七二七)一〇月の覚(「御運上願江戸土浦附留帳」石塚家文書)に「一、川口両側町並ニ可仕事」とあり、おもに旧桜川の左岸に発展した。続いて「川口通御普請并新田築立ニ付、(中略)川広ケ候ニ付」とあり、藩の援助によって川口河岸(土浦河岸)がつくられた。米・雑穀・薪・木材を江戸に運び、塩・酒・小間物・呉服などを帰り荷とする高瀬船の出入りで栄え、橋本屋・丸勢・丸万などの船頭相手の旅籠があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報