市野瀬村(読み)いちのせむら

日本歴史地名大系 「市野瀬村」の解説

市野瀬村
いちのせむら

[現在地名]長谷村大字市野瀬

三峰みぶ川上流の谷間の村で、北はくろ川を境に黒河内くろごうち村、左岸南は枝郷のうら村に接する。谷底の平地の市野瀬を中心に山麓あるいは山腹に、中尾なかお馬越まごい柏木かしわぎ杉島すぎしま等の集落が散在する。東は巍峨たる山岳をもって甲斐及び駿河に接する。

天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「三百四拾六石五斗七升四合五勺 市ノ瀬」とあり、正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻では浦村が村高三〇石で独立している。

市野瀬集落の南の小字たいらに高さ四〇メートルほどの全く孤立した平山城跡があり、これを市野瀬熊野城跡といい、昭和一一年(一九三六)刊の「長野県町村誌」によれば、「応永の年間より平惟茂の末孫、市野瀬兵庫正保、始て之を築き爰に居す」とあり、その北麓の熊野森くまのもりという地籍に古い宝篋印塔が一基現存する。


市野瀬村
いちのせむら

[現在地名]高岡市戸出市野瀬といでいちのせ戸出栄町といでさかえまち

おおかみ村の北方に位置し、北は射水いみず十二町じゆうにちよう村、西は伊勢領いせりよう村、東は春日吉江かすがよしえ村。市之瀬村ともみえる。村西部を玄手げんて川、東部を千保せんぼ川が北流する。村名は庄川旧流にあった一ノ瀬という地名によるという(戸出町史)。中世は一瀬いちのせ保が成立していた。嘉元三年(一三〇五)四月頃とされる摂渡庄目録(九条家文書)に平等院領として「越中国一瀬保 寺家分絹九十疋 預所分三疋」とある。元来国衙領であったが、承久の乱後九条頼経が第四代将軍に迎えられたことにより、幕府方から九条家に給され、呉服料所とされたものであろう。暦応五年(一三四二)正月日の摂渡庄目録では平等院の執行法印の管領下に入っていたことが知られる。


市野瀬村
いちのせむら

[現在地名]南伊豆町市之瀬いちのせ

蛇石じやいし村の南東青野あおの川上流域に位置する。一瀬・一之瀬・市ノ瀬・市之瀬とも記す。高根たかね神社に所蔵される大永六年(一五二六)一二月三日の棟札に「仁科庄小浦郷内一瀬村」とみえる。天正一〇年(一五八二)閏一二月(京都では天正一一年一月にあたる)二〇日清水康英は同又兵衛に、一之瀬内五貫目の田地を安堵している(「清水康英判物」清水文書)


市野瀬村
いちのせむら

[現在地名]芦北町市野瀬

佐敷さしき川水系と球磨川水系の分水嶺をなす台地上にあり、石灰岩とシラス土壌が多い。北は才木さいき村、南は大野おおの村に接する。「八代日記」によれば、天文二一年(一五五二)一一月二六日「求麻御登ニ佐敷ヘノ御出船、依天気ニ徳淵ニ廿八日まて御逗留、廿八日ニ佐敷ニ御着候、卅日ニ一瀬まて之御光儀」とある。

寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に市野瀬村とあり、田畠高四五三石一斗余、居屋敷五三ヵ所、家数一八三軒、人数二九三、うち女一四二、頭百姓八・脇百姓二七・名子百姓二九とあり、牛一五・馬一九がいた。


市野瀬村
いちのせむら

[現在地名]吉川町市野瀬

毘沙門びしやもん村の南に位置し、美嚢みの川支流の大沢おおそう川と吉川川の合流点に立地する。慶長国絵図に一ノ瀬村とみえる。領主の変遷は元和三年(一六一七)明石藩松平氏領となるまで吉谷きつたに村と同じ。「寛文朱印留」に村名がみえないことから、万治二年(一六五九)松平信之が父忠国から遺領を継ぐ際に弟信重に分知された美嚢みなぎ郡五千石のなかに含まれた。延宝七年(一六七九)信重は美嚢郡の所領を大和国に移されたため幕府領となった(「寛政重修諸家譜」など)


市野瀬村
いちのせむら

[現在地名]菊池市市野瀬

西迫間にしはざま村の北にあり、迫間川の両岸から山が迫る。隈府わいふ町高札辻より約一里。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳に田一町三反七畝余・畠四町九反七畝余、分米三九石五斗余とある。元禄一四年(一七〇一)の肥後国絵図変地帳(県立図書館蔵)正保郷帳の表記「市ノ瀬村」を市野瀬村に直すとある。近世は河原手永に属し、「国誌」は小村に岩下をあげる。文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑に高五七石七斗余、田一町五反九畝余・畑二九町六畝余、竈数二四・人数一一五、牛馬四二、氏神天満宮とあり、迫間川筋の堰として惣見原下堰を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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