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弓月君 ゆづきのきみ

8件 の用語解説(弓月君の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

弓月君
ゆづきのきみ

融通王とも書く。秦氏の祖といわれる伝説的人物。『日本書紀』によれば,彼は5世紀頃百済から来朝し,多くの人民を率いてきたが新羅人に妨げられて,人民は加羅国に滞留しているといった。そこで,天皇は彼らを迎えるために葛城襲津彦 (かつらぎのそつひこ) を加羅に派遣したが,3年たっても帰国しないので,平群木菟 (へぐりのつく) 宿禰をつかわし,弓月君の率いてきた人民を連れ帰ったという。

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デジタル大辞泉の解説

ゆづき‐の‐きみ【弓月君】

秦(はた)氏の祖といわれる伝説的人物。秦の始皇帝の子孫と称し、応神天皇の代に百済(くだら)から渡来したという。融通王。

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百科事典マイペディアの解説

弓月君【ゆづきのきみ】

秦(はた)氏の祖先と伝えられる人物。一説に秦氏は秦(しん)の始皇帝の子孫。応神朝に百済(くだら)から来日したとされるが,実在の人物かどうかも不明。
→関連項目渡来人

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

弓月君 ゆづきのきみ

古代の伝承上の渡来人。
秦(はた)氏の祖とされる。「日本書紀」には,応神天皇のとき百済(くだら)(朝鮮)から120県の民をひきいて渡来したとある。「新撰姓氏録」には,秦(しん)(中国)の始皇帝の末裔(まつえい)である融通王(弓月君)が応神天皇14年に127県の民をつれて渡来したとある。

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朝日日本歴史人物事典の解説

弓月君

古代の朝鮮から渡来した人々の集団の首長とされる伝説的人物。融通王とも。『日本書紀』によると,応神14年に弓月君が百済から渡来し,率いる120県の人々が新羅人の邪魔により,加羅(加耶)に留まっていると報じたので,葛城襲津彦が加羅に遣わされた。同16年になって平群木【G7EDF/へぐりのつく】宿禰,的戸田宿禰らを加羅に遣わし,襲津彦と共に人々を連れてきたという。『古事記』応神記には秦造の祖,漢直の祖が渡来したとのみある。9世紀初めの『古語拾遺』や『新撰姓氏録』には秦氏の祖と伝えられ,『日本三代実録』元慶7(944)年条の秦永原らの上奏では同氏は秦の始皇帝の子孫融通王の後裔であるとの系譜意識が語られている。これに対して,これらの記事は元来弓月君は葛城氏の同系の波多氏らの祖という伝承であったのが,のち秦氏の祖と変わったとする異説もある。秦氏は波旦(韓国蔚珍市)あたりを本拠地とする集団が5世紀末から6世紀初めにかけて加耶南部に移動し,そこから渡来して故地の名にちなんだ氏名を称したとみなされる。<参考文献>平野邦雄『大化前代社会組織の研究』

(鈴木靖民)

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世界大百科事典 第2版の解説

ゆづきのきみ【弓月君】

帰化系雄族の秦氏(はたうじ)の祖と伝えられる人物。《日本書紀》によると,応神天皇のときに百済から120県の人夫(民衆の意)を率いて渡来したという。この人夫の数は秦氏の後世大いに発展した姿を過去に投影させた造作とみられるが,その伝説化はその後さらに進み,《新撰姓氏録》にみえる伝えでは,秦氏は秦始皇帝13世の孫の孝武王の後裔で,王の子の功満王が仲哀朝に,その子の融通王(弓月君)が応神朝に127県の百姓を率いて帰化したというようになっている。

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大辞林 第三版の解説

ゆづきのきみ【弓月君】

はた氏の祖とされる伝説的人物。日本書紀によると、応神朝に百済くだらから民を率いて渡来したという。ただし、その実在や渡来の年月は確かでない。融通王。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

弓月君
ゆづきのきみ

古代の渡来系豪族の秦(はた)氏の祖といわれる。『日本書紀』には、応神(おうじん)天皇14年に弓月君が百済(くだら)からきて、120県の人夫を率いて帰化しようとしたが、新羅(しらぎ)人に妨げられて、皆加羅(から)国にとどまっていると上奏したので、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わしたが、3年たっても襲津彦は戻らなかった。そこで平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)と的戸田(いくはのとだ)宿禰に精兵を授けて加羅に赴かせ、弓月の人夫と襲津彦を連れ戻したとある。『日本書紀』では弓月君を秦氏の祖とはしていないが、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に、太秦公(うずまさのきみ)宿禰は、秦始皇帝(しんのしこうてい)3世の孫、孝武王の後で、男融通(ゆうずう)王(弓月君)が応神天皇14年に来朝したとみえる。後世につくられた話の疑いがある。[志田諄一]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の弓月君の言及

【秦氏】より

…秦始皇帝の裔を称し,後漢霊帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には,応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。《新撰姓氏録》もほとんど同じことを記すが,弓月君は秦始皇帝の子孫で,帰化したのち〈大和朝津間腋上〉の地に安置されたとし,酒公は〈秦民〉92部1万8670人をひきい絹を貢進し,それを納めるため〈大蔵〉を宮側にたて,その〈長官〉となったという。…

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