平安中期の武将。桓武(かんむ)天皇の曽孫(そうそん)高望王(たかもちおう)(平高望)の子。良望(よしもち)とも称す。889年(寛平1)、父高望王の臣籍降下(しんせきこうか)、任上総介(にんかずさのすけ)に伴って東下(とうげ)し、やがて常陸大掾(ひたちだいじょう)、鎮守府(ちんじゅふ)将軍を歴任した。常陸国(茨城県)真壁(まかべ)郡内の石田(しだ)に宅(たく)を構えて、南は筑波(つくば)郡、北は新治(にいはり)郡にかけての一帯を勢力下に置いた。931年(延長9)以来の舎弟平良兼(よしかね)(下総(しもうさ)介)と甥(おい)平将門(まさかど)の対立が一族内に波及し、前常陸大掾源護(まもる)一族をも巻き込み、将門との交戦は深刻化した。935年(承平5)2月、将門は伯父国香の勢力圏である筑波、真壁、新治の三郡内へ襲撃をかけ、諸所の小宅や農民の舎宅を焼き巡り、国香の石田宅(しだのたく)をも襲ったため、国香は焼死した。いわゆる承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱の始まりである。
[糸賀茂男]
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(朧谷寿)
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?~935.2.-
平安中期の武将。本名は良望(よしもち)。高望の子。常陸国を本拠とし,常陸大掾(だいじょう)・鎮守府将軍に任じられた桓武平氏の中心的人物。平氏の祖とされる。一族間の争いにより兄弟の良兼に加勢し,935年(承平5)甥の平将門(まさかど)と戦ったが,常陸国石田館(現,茨城県筑西市)で敗死。この報を聞いた子の貞盛は将門に敵対,平将門の乱の発端となる。
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…賜姓平氏のうち桓武天皇の皇子・皇孫に系譜をもつものの称(図)。桓武平氏に葛原(かつらはら)親王流・万多(まんだ)親王流・仲野親王流・賀陽(かや)親王流などがあり,さらに葛原親王流も高棟(たかむね)王流と高望(たかもち)王流とに分かれる。しかし,一般にはこれらの諸流のうちとくに高望王流の平氏を桓武平氏という場合が多い。
[東国の諸平氏]
葛原親王の子高見王(高棟王の弟)の子が高望王で,彼は889年(寛平1)8月に平姓を与えられ,上総介になったことから,その子孫が東国地方に繁衍(はんえん)する基が開かれた。…
…旧国名。常州。現在の茨城県の大部分(下総国に属する南西部を除く。なお,北西部は陸奥国白河郡依上(よりかみ)郷(保)に属したが,太閤検地以後常陸国久慈郡に編入された)を占める。
【古代】
東海道に属する大国(《延喜式》)。古く〈常道〉と表記されたこともある。国府は現在の石岡市石岡に置かれ(石岡小学校付近に国庁跡を比定する説が有力),国分寺,国分尼寺,総社も同市にあった。大化前代には新治(にいはり),筑波(つくば),茨城(うばらき),仲(なか),久自(くじ),高(たか)の6国造が置かれた地域で,また大和朝廷によって宇治部,額田部(ぬかたべ),八田部,多治比部,刑部(おさかべ),藤原部,孔王部(あなほべ),日下部(くさかべ)など多くの部が設定された。…
※「平国香」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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