平安時代中期の武将。生没年不詳。桓武平氏高望王の孫で,平国香の長子。935年(承平5)左馬允として在京中,父国香が平将門によって殺されたことを知り常陸に下った。はじめ仇敵将門に宥和的姿勢を示したが,叔父良兼に誘われて将門追討軍に加わった。しかし都での出世を願い,938年(天慶1)東山道を上京。途中信濃で将門の追撃をうけたが,からくも逃れて,朝廷に将門追討の官符発給を愁訴した。翌939年将門追討の官符をたずさえて坂東に下ったが,将門の威勢のもとでなすすべもなかった。この間,父国香が帯していた常陸掾に任じている。940年下野押領使藤原秀郷と盟約をむすび,ついに将門をその本拠に滅ぼした。この功により従五位上に叙せられ,また鎮守府将軍,陸奥守を歴任し,従四位下にまで進んだ。平清盛らの祖である。
→平将門の乱
執筆者:小田 雄三
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生没年不詳。平安中期の武将。平国香(くにか)の子。平将門(まさかど)挙兵当時は京官(きょうかん)(左馬允(さまのじょう))であったという(将門記(しょうもんき))が、生涯の任官歴は多彩である。父国香死去後、平氏棟梁(とうりょう)として将門との対戦を余儀なくされるが、その態度は消極的であった。しかし、940年(天慶3)に至り、下野(しもつけ)国押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)とともに将門を討ち、その功により正五位上右馬介(うまのすけ)に叙せられた。また、鎮守府将軍、陸奥守(むつのかみ)などを歴任したともいう。貞盛の経歴は『今昔(こんじゃく)物語』にもみえ、その映像はけっして『将門記』の枠内にとどまらない。子息らのうち、維将(これまさ)流が北条氏、維衡(これひら)流が伊勢(いせ)平氏として展開を遂げていることからも、貞盛の広範な行動が再評価されてよい。さらに、甥(おい)維幹(これもと)が常陸(ひたち)平氏本宗(ほんそう)を継いだ所伝も、貞盛のかかる履歴と無関係ではない。
[糸賀茂男]
(朧谷寿)
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生没年不詳。平安中期の武将。平氏繁栄の基礎を築く。伊勢平氏の祖。国香(くにか)の子。常平太・平将軍と称する。在京中の935年(承平5)父が平将門(まさかど)に殺害されたことを知り,常陸に帰国。叔父良兼らとともに従弟の将門と戦って失敗したが,940年(天慶3)藤原秀郷(ひでさと)と結んで将門を滅ぼした。この功により従五位上となり,右馬助に任じられた。鎮守府将軍・陸奥守を歴任,従四位下を極位とした。「今昔物語集」などに逸話が残る。
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