平塚村(読み)ひらつかむら

日本歴史地名大系 「平塚村」の解説

平塚村
ひらつかむら

[現在地名]鴨川市平塚、安房郡丸山まるやま町平塚

金束こづか村の南、加茂かも川の最上流域にあり、長狭ながさ郡の西端に位置する。西のへい荒川あらかわ(現富山町)へ通ずる往還が通り、加茂川には金掘かなほり渡・井草道いぐさみち渡・仲田なかだ渡があった(天保九年「関東取締出役巡見触書写并町間之覚書諸色」山田家文書)。貞和二年(一三四六)六月一三日の大炊助源某寄進状および延文三年(一三五八)二月一〇日の但馬守泰親寄進状(ともに安田文書)によれば、当地にある大山おおやま寺の敷地として大田代おおだしろが寄進されており、その西限として平塚とみえる。その他の四至は東が鳴沢なるさわ、南がまる(現丸山町)、北が鵠森(鳴森、比定地未詳)としている。嘉吉三年(一四四三)にも大山寺平塚郷の正作田二段が寄進されている(三月二八日「胤清・貞景・泰家連署寄進状」同文書)

慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高六七五石余(うち田方四二七石余)、里見氏給人領。同一一年の里見家分限帳では三〇石が大山寺領で、残りの六四五石余は同氏直轄領。このほかに同一五年の里見家分限帳には大山寺領大山村として六石余がみえる。この六石余は同一一年の分限帳では古畑こばた村にあった。


平塚村
ひらづかむら

[現在地名]甘木市平塚

一木ひとつぎ村の南西、小石原こいしわら川と佐田さだ川の間に発達した台地にある。下座げざ郡に属し、東は小田おだ村、南は小隈おぐま村・中寒水なかそうず村、南西は夜須やす草水そうず村、北西は同郡上浦かみうら村・馬田まだ村。福岡藩成立後は同藩領、元和九年(一六二三)支藩の秋月藩が成立すると同藩領に転じたが、寛永一三年(一六三六)の御内証替によって一部が福岡藩領に復した。「続風土記拾遺」によると、本村のほかに今福いまぶく栗山くりやま北寺きたでらの集落があり、産土神は林田はやしだ村の林田神社(現美奈宜神社)。ただし今福は夜須郡下浦村の高良王子こうらおうじ(現王子神社)を産土神としていた。なお「地理全誌」は中小路なかしようじと今福原からなる本村と栗山・北寺の集落があったとする。建武三年(一三三六)六月日の大島通秀軍忠状(来島文書/南北朝遺文(九州編)一など)に「平塚」「平塚原」とみえ、菊池武敏ら南朝方攻撃のため仁木義長に従い筑後国に向かった大島通秀・荒木家有らは、同年五月一六日、当地で菊池方と戦っている。一四世紀半ば頃、阿蘇あそ(現熊本県一の宮町)大宮司阿蘇氏の被官と思われる土田惟世らは元弘(一三三一―三四)の配分に従って「平塚名」などを与えるので、代官を南朝方の惣領惟澄のもとに派遣するよう命じられている(三月二二日「資宣奉書」阿蘇家文書/南北朝遺文(九州編)六)


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]白井町平塚

名内なうち村の東に位置し、北部の船戸ふなと手賀てが沼に面し、河岸があった。なま道が通る。中世は平塚郷が成立。建久年間(一一九〇―九九)の香取社遷宮用途注進状(香取文書)に郷名がみえ、遷宮用途および覆勘使例禄引物雑事を負担している。こうした負担は鎌倉時代に平塚郷本役などとして香取社の東西脇門二宇の造営作料官米六〇石などが充てられ、地頭金沢実時が担当している。「寛文朱印留」に村名がみえ、高岡藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二五三石余、高岡藩領と旗本井上領(高岡藩の分知領)。旧高旧領取調帳では高岡藩領三三七石余のほか、井上領七〇石余・幕府領四七石余。当村の持添新田は手賀沼付平塚村新田・野方平塚新田中村なかむら新田のうち平塚村があり、天保一三年(一八四二)の明細書上帳控(平塚村資料)では順に六二石余、四七石余、一〇一石余。いずれも幕府領で無民家。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]八千代町平塚

飯沼新田いいぬましんでん北の洪積台地上に位置。北は水口みのくち村。築越つつこしとよばれる坂道を下ると飯沼新田がある。畑作地が多く、茶の栽培が目立つ。現在は本田ほんでん前山まえやま松山まつやま天王木番田てんのぎばんだ築越つつこし六軒ろつけん道前六保どうまえろつぽ二ッ釜ふたつがま・平塚新田の八行政区に分轄され、大字松本まつもとの西に樋姓寺ようしようじ、大字水口の北に飛地の札野ふだのがある。「将門記」に承平七年(九三七)八月のこととして、堀越ほりこしの渡の戦いで敗れた平将門は「山ヲ帯ビテ陸閑むつへノ岸ニ居リ」とみえるが、この「陸閑」を小字六軒に比定する説が有力である。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]大安町平塚

石榑下いしぐれしも村の南、台地と沖積低地とを画する崖下に集落が立地する。員弁川が村の東を南流、宇賀うが川が南を東流し、村の東南端で合流する。当村内の三井みいおよび下三井は、天平一六年(七四四)に奈良大安寺に施入された「阿刀野百町」の四至のうち「東百姓墾田御井」(「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」奈良市正暦寺蔵)にあたるのではないかといわれている。また「員弁雑志」は当村を「神鳳鈔」にみえる外宮領「平田御厨一石五斗」の旧地であるとしているが、確証はない。


平塚村
ひらづかむら

[現在地名]境町平塚

新田につた郡に属し、利根川沿岸の村。北は同郡八木沼やぎぬま村、同郡世良田せらだ(現尾島町)、東は同郡徳川とくがわ(現同上)、西は佐位さいしま村。新田庄内平塚郷の遺称地。寛文郷帳では高一千石、畑方のみ、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では高一千四五石余、家数一七八。近世を通して幕府領であった。木崎きざき宿(現新田郡新田町)の定助郷で、慶安元年(一六四八)の木崎村への寄馬覚(中島文書)に、三ッ木みつぎ村、島村、八木沼村などの村とともに村名がみえる。明和三年(一七六六)の助郷帳(同文書)では助郷高一七〇石一斗。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]筑穂町平塚

嘉穂盆地の南西部、穂波ほなみ川中流域の右岸に位置する。東は九郎丸くろうまる(現桂川町)、西は阿恵あえ村・長尾ながお村、南は弥山ややま村、北は豆田まめだ(現桂川町)。「続風土記附録」は出雲いずもを枝村としている。豆田村から出雲を経て内野うちの宿に向かう長崎街道が通る(続風土記附録)。文明一〇年(一四七八)大内氏家臣弘中盛時は「穂波郡平塚村内七町五段地平塚伊豆守跡」を代所として宛行われており(同年一〇月六日大内政弘下文「正任記」同月八日条)、当地の在地領主平塚氏の存在も確認される。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]谷田部町東平塚ひがしひらつか西平塚にしひらつか下平塚しもひらつか

猿壁さるかべ村・弥平太やへいだ(現大穂町)の南、蓮沼はすぬま川に沿って所在。東岸を平塚東村、西岸の北部を平塚西村、南部を平塚下村とする。文禄年間(一五九二―九六)には佐竹氏の領有下に入ったともいわれるが、江戸初期の領主は不明。元禄年間(一六八八―一七〇四)に麻生藩新庄氏領となって廃藩置県に及んだ。文化一四年(一八一七)の村高は六三〇・四七八石、天保二年(一八三一)には七八五・三一〇一石で家数五〇、人口男一六〇・女一〇四。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]富山市水橋平塚みずはしひらつか

白岩しらいわ川右岸沿いに位置し、北は曲淵まがりぶち村、東は石割いしわり村。往時は毎年のように洪水が起こり、大小無数の塚があったと伝える。村人は川の曲流を克服しつつ川の土砂を積上げては田作りを行い、塚を平らにして耕地を作ったのが村名の由来という(上条小史)。応永一六年(一四〇九)八月二七日の守護畠山満家寄進状(永源師檀紀年録)小井手こいで金剛こんごう寺に寄進された門前地の四至のうちに「東限平塚道」とあるが、これは当地にかかわるものであろうか。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]佐久市平塚

岩村田いわむらだ町の西方、浅間山の火山泥流上にある残丘の点点とした平坦地で、中山道沿いにある村。街道沿いの西は根々井塚原ねねいつかばら、南は根々井、北は赤岩あかいわ上塚原かみつかばらの村々に接する。

中世、岩村田を中心とした大井氏の本拠地大井郷は「民家六千、交易四達し、賑ひ国府にまさり」「南北凡四十丁許、東西凡三十四、五丁、或ハ四十三、五丁」(四鄰譚藪)というので、この辺りもその境域のうちと考えられる。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]浅井町平塚

尊野そんの村の北東に位置。永禄八年(一五六五)と推定される正月二八日の島奉行菩提坊行意の書状(阿部文書)によれば「御天材木」を荒削りすべく「ひらつか衆」の数人が竹生ちくぶ(現びわ町)へ渡るよう申付けられている。また天正二〇年(一五九二)一二月四日の米穀借状(平野庄郷記)に「平つか村」とみえる。尊勝寺そんしようじ村の支巴であったことから(同書)、同一九年四月二三日に豊臣秀吉が当地の実才じつさい(現曹洞宗実宰院)に宛行った「尊勝寺村内、合五拾石」(実宰院文書)や、徳川秀忠が朱印状を出した同村内五〇石(元和朱印留)も当地にあったものと考えられる。寛永石高帳によれば高二二四石余のうち幕府領一七四石余・実宰院領五〇石余。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]宇都宮市平塚町

北と東は西刑部にしおさかべ村、南は西汗にしふざかし(現河内郡上三川町)と接する平坦地で、面積は周辺の村と比べて小さい。応永一八年(一四一一)一一月八日の宇都宮持綱寄進状(一向寺文書)によれば「西方内大和田郷半分」が「西刑部郷内平塚村」の代りとして一向いつこう寺の普阿に寄進されている。弘治二年(一五五六)二月一五日の結城政勝書下状(称名寺文書)に「宇都宮ヒラツカ上子金宰相」とあり、門徒として称名しようみよう(現横浜市金沢区)に認めている。

近世初期より宇都宮藩領。慶安郷帳では田方七四石余・畑方四四石余とある。享保元年(一七一六)雀宮すずめのみや宿助郷高二二〇石(「雀宮宿助郷帳」県立図書館蔵)。文政一〇年(一八二七)の農間商人取調(早乙女俊夫文書)によれば高二六二石余、家数五・人数二四、いずれも農業一統渡世。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]川越市平塚

鯨井くじらい村の北、入間いるま川左岸で同川と小畔こあぜ川に挟まれた低地に立地。高麗こま郡に属した。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六九石余・畑高一三八石余、ほかに野銭永三貫五〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二五〇石余、反別田一四町四反余・畑二七町三反余、ほかに開発分高三八石余(反別田二町二反余・畑四町二反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高二三八石余・外高三五石余。秋元家時代郷帳では反別田一七町余・畑三一町一石余・野二町七反余、ほかに見取場田一畝余・畑一町一畝余、野永三貫一八一文、並木一ヵ所がある。


平塚村
ひらつかむら

[現在地名]滑川市しば

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、西は安田やすだ村、南東は安田新村正保郷帳に高七一石余、田方四町四反余・畑方三反の平塚村が記されるが、当村か現富山市の同名村か判別できない。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三二石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)。所属組は文政八年(一八二五)加積組、天保一〇年(一八三九)以降中加積組。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android