改訂新版 世界大百科事典 「広開土王碑」の意味・わかりやすい解説
広開土王碑 (こうかいどおうひ)
高句麗の第19代の国王広開土(好太)王の功績を編年的に叙述して記した石碑。414年(高句麗の長寿王2)に建てられ,中華人民共和国吉林省集安に現存。石碑の材質は,角礫凝灰岩で,不正四角形の柱状。高さは6.34m,各面の幅は平均1.59mという巨大なもの。碑文には391年に相当する〈辛卯年〉に倭(日本)が海を渡って〈百済・新羅〉などを〈臣民〉としたと読みとれる字句や,いくたびか倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があったためか,1883年(明治16)に石碑の建っている輯安(集安)の地に密偵として入った参謀本部の将校,酒匂景信が,この碑文に注目して,拓本を日本に持ち帰った。84年から参謀本部でこの拓本の判読と注解の仕事がはじまり,これが〈神功皇后の三韓征討伝説〉と結びつけられて,その伝説を歴史事実とみなすことができる重要な史料として,この碑文が重んじられるにいたった。ところが,1950年代に戦前の民族主義史学(鄭寅普ら)の見解をうけついだ大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の研究者によって,碑文の〈倭辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民〉の部分の読み方に疑問が出され,この個所の文の主語は高句麗でなくてはならないことが強調され,細かな点では違いがあるが,大筋では倭が〈渡海〉したのではないということで,両国の研究者の意見は一致し,今日にいたっている。日本でもこうした説に刺激され,碑文の再検討の気運が高まり,日本における碑文の研究史にいくつかの新知見をもたらし,また李進煕による碑文の改ざん説もあらわれた。碑文の全体的な解釈は緻密になり,研究は大きく発展したが,あらためて現存する石碑を実見し,新しい拓本を拓出して検討を加えなければならない必要にせまられている。なお,1980年代初めの中国吉林省考古学研究所の碑文調査では改ざん説を否定している。
執筆者:佐伯 有清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報