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広開土王碑 こうかいどおうのひKwanggaet'o-wang-bi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

広開土王碑
こうかいどおうのひ
Kwanggaet'o-wang-bi

朝鮮,鴨緑江西岸の輯安 (現中国吉林省集安県) の東崗にある広開土王の記功碑。好太王碑ともいい,王の名は正しくは国岡上広開土境平安好太王という。清朝末期に再発見され,酒勾景信が 1884年に拓本を将来してから日本でも研究が盛んになった。高さ 6.2m,幅 2mの自然石に刻まれた千数百字の碑文には,建碑の理由,王の武勲陵墓に関する王の教令遺訓が記されている。特に,王の武勲のうち,391,399年の (日本) =百済連合軍撃退の部分は古代の日韓関係を知るうえで,また『三国史記』や『日本書紀』などの欠を補う点で重要な史料である。また「任那」という文字の最古の用字例が碑文にみえることも注目される。

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百科事典マイペディアの解説

広開土王碑【こうかいどおうひ】

好太王碑とも。高句麗広開土王功業,武勲を刻した石碑で中国吉林省集安にある。414年(高句麗の長寿王2年)に建立。高さ6m余,幅約1.6mの石碑に1775字が刻まれている。

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世界大百科事典 第2版の解説

こうかいどおうひ【広開土王碑】

高句麗の第19代の国王広開土(好太)王の功績を編年的に叙述して記した石碑。414年(高句麗の長寿王2)に建てられ,中華人民共和国吉林省集安に現存。石碑の材質は,角礫凝灰岩で,不正四角形の柱状。高さは6.34m,各面の幅は平均1.59mという巨大なもの。碑文には391年に相当する〈辛卯年〉に倭(日本)が海を渡って〈百済・新羅〉などを〈臣民〉としたと読みとれる字句や,いくたびか倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があったためか,1883年(明治16)に石碑の建っている輯安(集安)の地に密偵として入った参謀本部の将校,酒匂景信が,この碑文に注目して,拓本を日本に持ち帰った。

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大辞林 第三版の解説

こうかいどおうひ【広開土王碑】

広開土王の功業を記念して子の長寿王によって414年に建てられた碑。中国の吉林省の鴨緑江中流北岸にある。古代の日朝関係を語る重要な史料。表面が磨耗し、解釈をめぐる論争がある。好太王碑。

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世界大百科事典内の広開土王碑の言及

【大和朝廷】より

…(a)前期 記紀年代を修正すれば,4世紀後半より5世紀末までにあたる。石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘に,泰和4年(369),〈百済王〉から〈倭王〉に,国交開始を記念するためであろう,七支刀が贈られたことが記され,広開土王碑に辛卯(391)より甲辰(404)まで,倭が百済,新羅と交流をもちつつ,高句麗とはげしく戦ったことが記録されている。その主体となった倭王もヤマト王権をさす。…

※「広開土王碑」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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