改訂新版 世界大百科事典 「輯安」の意味・わかりやすい解説
輯安 (しゅうあん)
Jí ān
Chiban
中国吉林省集安県に属し,鴨緑江中流域右岸の,長さ十数kmほどにわたって細長く延びる沖積平野にあたる。集安県庁の所在地は,以前は通溝,現在は集安とか,その一部を洞溝と呼ぶ。
この地は,新石器時代から青銅器時代を経て,中国戦国時代の遺物まで出土するが,特に高句麗中期以後の遺跡や遺物が多数認められる。この地は,また高句麗の中期,長寿王15年(427)の平壌遷都までの,首都の所在地として知られる。現存する輯安県城は,20世紀の初めに大きく改築されているが,高句麗中期の国内城あるいは丸都城を継承したものである。県城は,1辺が約700mのほぼ方形の石築の城壁に囲まれている。高句麗時代には,城郭の西辺は洞溝河を利用しているが,北,東,南の各辺の外側には濠を掘って,防備を固めた。当初,城壁には,甕城形式の城門,四隅には閣楼,各辺に一定の距離をおいて雉(ち)などの施設があった。城内には道路が縦横に走った痕跡があり,また礎石や瓦の出土から,建物群の存在がうかがわれる。国内城跡の北東方約1kmの東擡子でも,建築跡が発掘されているが,性格はよくわからない。国内城跡の北西約3kmの山城子山には,慰那巌城に推定される巨大な山城子山城がある。この山城には,いくつかの尾根や谷をめぐって,周囲7~8kmの石塁で平面不整形に城壁が取り囲んでいる。城壁の南東辺には正門である南門が設けられ,随所に城門,閣楼,雉,水門などの施設があった。城内には指揮所としての将台跡や水源池がみられる。
集安県内では,これまでに老嶺山脈の東部に23ヵ所1万2206基,西部に9ヵ所152基の墳墓が知られる。これらは積石塚と封土墳からなるが,高句麗の首都が,桓仁,輯安にあった時代のみならず,平壌遷都後の時期のものまで,前1世紀後半から後7世紀まで長期にわたって築造されたものである。そのうち,およそ東西8km,南北3kmの洞溝一帯には,1万1300基の墳墓が認められる。そのなかには,方形段築式の巨大墳である太王陵,将軍塚などの積石塚のほか,華麗な壁画のみられる三室塚,舞踊塚,角抵塚,環文塚,牟頭婁塚,四神塚など著名な封土墳が含まれる。400年ごろを境にして,積石塚から封土墳への変化がたどられる。太王陵の北東方約450mの地点には,広開土王碑が立つ。また《三国史記》《三国遺事》によると,小獣林王2年(372)に,高句麗にはじめて仏教が伝来し,まもなく肖門寺や伊弗蘭寺が創建されたと伝えるが,寺院跡はいまだつきとめられていない。なお,主として遼東方面より侵入してくる外敵から,首都である国内城を防御するために,輯安に入る道路に沿って,関門としての遮断城を築いた。南路の望波嶺関隘と覇王朝山城,北路の関馬牆がそれである。
執筆者:西谷 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報