鎌倉時代の日記文学。二巻。1252年(建長4)までの記事がある。作者後深草院(ごふかくさいん)弁内侍は似絵(にせえ)(肖像画)の大家藤原信実(のぶざね)の女(むすめ)(生没年未詳)。姉妹の藻壁(そうへき)門院少将、少将内侍とともに優れた歌人であった。内容は後嵯峨(ごさが)天皇譲位の1246年(寛元4)に起筆、ついで後深草天皇即位以後断続的に52年まで7年間のことがあるが、現在伝わる日記は末尾が散逸しており、作者はさらに7年後の1259年(正元1)後深草譲位まで奉仕していたことが知られるから、本来はこのころまで書き継がれたものと思われる。天皇の行動や宮廷行事に関するもので公的性格が強く、めでたいこと、おもしろいことなど明るい記事の羅列であるが、機知とユーモアに富んだ天真爛漫(らんまん)な作者の個性もよく出ている。歌が304首、連句が六句あるので、「弁内侍家集」とも称される。
[松本寧至]
『池田亀鑑著『宮廷女流日記文学』(1927・至文堂)』▽『玉井幸助著『弁内侍日記新注』(1958・大修館書店)』▽『玉井幸助著『日記文学の研究』(1965・塙書房)』
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… この小歌がいかなる経路によって,後世の中世(室町)小歌のような短詩型の流行歌謡を意味するようになったかは明らかでないが,おそらく小歌女官の演唱する歌謡が,〈五節舞〉という女楽的な歌曲の性質上,曲節にもおのずから優婉味が加わり,歌詞にも世俗的な傾向を帯びた恋歌が選ばれ,やがてそれが内裏の女房たちの列する宴席歌謡などにも流用されるに及んで,いつしか〈小歌〉という名称が,中世小歌のような抒情的内容の歌曲類を意味するようになったと推測される。鎌倉時代の《弁内侍日記(べんのないしにつき)》(1252年(建長4)成立)には,こうした五節間の記事とともに,女房たちが宴席において五節の出歌のまねをして遊んだことなども記され,五節間に行われた短詩型の歌謡群が,やがて遊宴歌謡化して中世小歌の母体ともなったであろうことを明らかに推測せしめる。志田延義は平松家旧蔵の《異本梁塵秘抄口伝集》(1185年(文治1)以後成立か)の奥書や,《綾小路俊量卿記(あやのこうじとしかずきようき)》(1514年(永正11)成立)の〈五節間郢曲事(ごせちかんえいきよくのこと)〉に見られる〈鬢多々良(びんたたら)〉〈思之津(おもいのつ)〉〈物云舞(ものいうまい)〉〈伊左立奈牟(いざたちなん)〉〈白薄様(しろうすよう)〉など,五節豊明(ごせちとよのあかり)の節会の殿上淵酔(てんじようえんずい)に行われた諸歌謡の中に,中世小歌の律調上の源泉とすべきものを見いだし,わけても, 千世に万世(よろずよ) かさなるは 鶴のむれゐる 亀岡(7・5・7・4)に始まる13首の物云舞のごとく,各歌の末尾にある4音(小歌では5音に変化)が,中世歌謡に著しくなる一特色として,後来の小歌の律形式の一源泉であることを指摘した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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