弁長(読み)ベンチョウ

デジタル大辞泉 「弁長」の意味・読み・例文・類語

べんちょう〔ベンチヤウ〕【弁長/辨長】

[1162~1238]鎌倉前期の浄土宗の僧。浄土宗鎮西派の祖。筑前の人。あざな弁阿。号、聖光坊。比叡山天台宗を学ぶ。のち、法然弟子となり、九州念仏を広めた。鎮西上人

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精選版 日本国語大辞典 「弁長」の意味・読み・例文・類語

べんちょうベンチャウ【弁長・辨長】

  1. 平安末期~鎌倉初期の浄土宗の僧。鎮西流の祖。筑前国(福岡県)生まれ。字は弁阿。号は聖光房。敬称は鎮西上人・善導寺上人など。比叡山で天台宗を学び、のち法然の門にはいった。元久元年(一二〇四)九州に帰り、広く念仏の教えを宣揚。著書に「浄土宗要集」「徹選択本願念仏集」など。応保二~嘉禎四年(一一六二‐一二三八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「弁長」の意味・わかりやすい解説

弁長
べんちょう
(1162―1238)

鎌倉時代の浄土宗の僧。浄土宗第二祖で、九州北西部を中心に活躍した。字(あざな)は弁阿(べんあ)(「べんな」とも読む)、号は聖光房(しょうこうぼう)、鎮西上人(ちんぜいしょうにん)、善導寺(ぜんどうじ)上人ともいう。筑前(ちくぜん)国(福岡県)香月(かつき)荘に生まれ、7歳で出家、観世音寺(かんぜおんじ)で受戒した。22歳で比叡山(ひえいざん)に登り、証真(しょうしん)(宝地房(ほうちぼう)。生没年不詳)に師事、天台の教義を学んだ。1190年(建久1)筑前油山(あぶらやま)の学頭となる。しかし1193年、弟三明房(さんみょうぼう)の死にあい、浄土の法門に心をひかれ、1197年上京のおり法然(ほうねん)(源空)に会って弟子となり、師のもとで8年間修学し、念仏の教えを受け継いだ。のち故郷に帰り、筑後(ちくご)(福岡県)、肥前(佐賀県・長崎県)に布教し、筑後に善導寺を開いて九州における念仏布教の基盤とした。師の法然を祖述し顕彰することによって、浄土宗の正流の宗学を確立した。この流れを鎮西(ちんぜい)流という。『末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)』『徹選択本願念仏集(てっせんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』『浄土宗要集』など著述も多い。

[阿川文正 2017年9月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「弁長」の解説

弁長

没年:暦仁1.閏2.29(1238.4.15)
生年:応保2.5.6(1162.6.20)
平安・鎌倉時代の僧で浄土宗鎮西派の2祖。聖光房ともいう。筑前国遠賀郡香月荘(福岡県北九州市)に生まれる。筑紫観世音寺で登壇受戒する。白巌寺の唯心,明星寺の 常寂 について天台を学ぶ。寿永2(1183)年に比叡山に登って,東塔南谷の観叡,のち東谷の宝地房証真に師事して天台宗を学ぶ。建久1(1190)年郷里の筑前国に戻り,油山の学頭になるが,弟の三明房の死に遭い世の無常を感じ,浄土教に傾倒する。同8年に明星寺三重塔に安置する本尊を注文のため上洛した折に法然の門下に入る。翌年に『選択集』の付属を受けた。法然の命で伊予国(愛媛県)に勧化に行くが,再び法然のもとで専修念仏を学ぶ。元久1(1204)年再び筑前国に帰り,後半生を筑前,筑後,肥後(熊本県)などでの念仏宗の布教に費やした。建暦2(1212)年に善導の逮夜と法然の77日逮夜に当たる3月13日に彦山の般舟三昧道場で追善のため別時念仏を行ったときに,霊夢を感じたため,善導の像を博多に迎えて,100日間の説教教化を行った。草野氏の援助によって筑後国三井郡本郷(福岡県久留米市)に善導寺を創建する。安貞2(1228)年に肥後国往生院で48日間の別時念仏を行った。門弟のひとりの宗円を宋に遣わし,善導の弥陀義を求めさせた。法然の没後に京都の門弟の間の異義紛々たる状況を嘆いて,自ら正当意識を強め,『末代念仏授手印』を選述し,北九州に多くの念仏道場を建立し,良忠 ら門下を育てた。<著作>『徹選択集』『浄土宗要集』『臨終用心鈔』<参考文献>坂田良弘『鎮西聖光上人の教学』

(林淳)

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改訂新版 世界大百科事典 「弁長」の意味・わかりやすい解説

弁長 (べんちょう)
生没年:1162-1238(応保2-暦仁1)

鎌倉前期の浄土宗の僧。鎮西派の祖。聖光(しようこう)房,弁阿と号す。筑前国遠賀郡香月荘(現,福岡県北九州市)の人。1183年(寿永2)比叡山にのぼり,証真について天台学を修め,90年(建久1)帰郷した。かつて学んだ明星寺の三重塔の再建をはかり,97年塔に安置する仏像をもとめて上洛,短期間の滞在であったが,この間に法然から教えを受けた。99年(正治1)再び上洛し,1204年(元久1)まで法然に師事した。その後,筑前,筑後,肥後の各地に念仏を広め,多くの寺を開いたが,教化の中心は筑後にあり,とくに善導寺(久留米市)が拠点であった。1228年(安貞2)肥後の往生院で48日間の別時念仏を修し,この間に《末代念仏授手印》を著して,法然滅後の異義を正そうとした。37年(嘉禎3)良忠(1199-1287)に法を伝え,翌年没した。弁長の法流を鎮西派というが,弟子良忠とその門下が浄土宗内で主流的位置を占めるにつれ,弁長には浄土宗2代の地位が与えられるようになった。
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百科事典マイペディア 「弁長」の意味・わかりやすい解説

弁長【べんちょう】

鎌倉時代の僧。字は弁阿(べんあ),号は聖光(しょうこう)房。浄土宗鎮西(ちんぜい)流の祖。筑前(ちくぜん)の人。初め天台を比叡(ひえい)山の証真(しょうしん),禅を大日能忍に学んだが,のち法然(ほうねん)の弟子となり,浄土教学をきわめ,筑前に善導(ぜんどう)寺など多くの寺院を開いて,良忠(りょうちゅう)など多くの弟子を教育した。著書《浄土宗要集》《浄土宗名目問答》など。
→関連項目浄土宗

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「弁長」の解説

弁長 べんちょう

1162-1238 鎌倉時代の僧。
応保2年5月6日生まれ。浄土宗鎮西(ちんぜい)派の祖。比叡(ひえい)山で証真に師事して天台をまなぶ。のち法然の門にはいり,念仏の教えを継承した。元久元年郷里の筑前(ちくぜん)(福岡県)にもどり,筑後(ちくご)(福岡県)に善導寺をひらいて念仏布教の拠点とした。嘉禎(かてい)4年閏(うるう)2月29日死去。77歳。俗姓は古川。字(あざな)は弁阿。通称は鎮西上人,筑紫上人,二祖上人。号は聖光(しょうこう)房。著作に「末代念仏授手印」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「弁長」の意味・わかりやすい解説

弁長
べんちょう

[生]応保2(1162).筑前
[没]嘉禎4(1238).2.
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。浄土宗鎮西派の祖。号は聖光房,敬称は鎮西上人,二祖上人,勅諡は大紹正宗国師。寿永2 (1183) 年比叡山に上り,宝地房証真から天台宗の奥義を受けた。弟の死にあたって無常を感じ,建久8 (97) 年法然上人に師事した。浄土宗の宗要をきわめて,大いに念仏を広めた。主著『浄土宗要集』『徹撰択集』『末代念仏授手印』。現在の浄土宗は,この派の発展したものである。

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367日誕生日大事典 「弁長」の解説

弁長 (べんちょう)

生年月日:1162年5月6日
平安時代後期;鎌倉時代前期の僧
1238年没

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世界大百科事典(旧版)内の弁長の言及

【浄土宗】より

…教団としての成長をみるのは後鳥羽天皇のころからである。初期浄土宗諸派の始祖となった証空(西山(せいざん)派),弁長(鎮西(ちんぜい)派),幸西(一念義派),長西(諸行本願義派),隆寛(多念義派)らがあいついで門弟となり,1201年(建仁1)親鸞が入門した。九条兼実,熊谷直実ら貴族や武士の帰依者も増えた。…

※「弁長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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