得珍保(読み)とくちんほ

日本歴史地名大系 「得珍保」の解説

得珍保
とくちんほ

現八日市市の南半、かつての蒲生がもう野の中心に位置した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒等の管領になる広大な一円領庄園。時期は不明だが延暦寺が牧でもあった蒲生野の荒地を占定して開発、国司に領有を承認され、寺領庄園として成立したと推定される。現在史料上における延暦寺領得珍保の初見は弘安七年(一二八四)一一月三〇日山門衆議下知状(今堀日吉神社文書、以下とくに断らない時は同文書)とされている。この下知状から当保と某庄(建部庄か)の境相論未決時の弘安二年に所当米不納があったことが判明、正安三年(一三〇一)にも羽田はねだ庄預所らが保内に打入るという事件があった(同年一二月日延暦寺東谷仏頂尾衆徒訴状案)

〔上四郷・下四郷〕

得珍保という名称は開発にあたった山門僧の得珍(徳鎮)の名にちなむといわれ、さまざまな伝承が存在するものの、いずれも信憑性は低い。ただ尻無しなし妙応みようおう寺の開基由緒を記した重修明王寺本尊記(妙応寺文書)にみえる、徳鎮が愛知えち川の水を引き数畝の田園を開いたという伝承は、水利に恵まれないこの地域の開発過程を象徴的に伝えている。保域の北東を流れる愛知川用水系のたか井は延暦寺が開発を目的として開削した可能性が高い。高井灌漑地域は当初柴原しばばら郷以東に限定され、西半は永く畑作地帯としての開墾にとどまり、これが東部の田方と西部の野方に二分された在地の単位となった。得珍保は保内ともいわれる。東部の田方と高井流末の西部の野方の二領域は、一四世紀以降田方をかみ四郷、野方を下四郷と別称されることが多く、合せて八郷が保内を構成した。田方上四郷は上大森かみおおもり・下大森・柴原の各郷と平尾ひらお・尻無(中村)郷によって編成され、柴原郷野背のせみなみ・西(芝原)三村を除けばほぼ近世以降の村と対応している。一方、野方下四郷は不明な点も多いが、今堀いまぼり東破塚ひがしこぼちづかで一郷、蛇溝へびみぞ郷、中野なかの金屋かなやで一郷、今在家いまざいけ小今在家こいまざいけで一郷の七村を四郷に編成して成立っている。中世後期にかけて田方・野方とも各郷社の宮座を中核とする惣的結合が展開、上四郷・下四郷は各惣村の連合体であった。上四郷においてはその結合に用水路の管理が重要な意味をもった。保全体では惣的結合を発展させるうえで、おき野のほか西部の狭義の蒲生野と南部の布引ぬのびき山などの入会地が果した役割が大きい。保内の入会地に関する規定は、応仁二年(一四六八)八月に山門学頭代の名で発した制札が最も早期の例と考えられる(山門学頭代制札案)。大永五年(一五二五)には沖野の草刈場をめぐるかき御園との争いがあり、諸郷は「保内御百姓」として行動した(同年三月二日山門学頭代下知状)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「得珍保」の意味・わかりやすい解説

得珍保
とくちんのほ

近江(おうみ)国蒲生(がもう)郡のうち、現滋賀県東近江市の南部に所在する荘園(しょうえん)。平安時代、比叡山(ひえいざん)の僧得珍の開いた地域で、保名はその名にちなむとする伝承がある。得珍保の史料上の初見は鎌倉時代後期で、延暦寺(えんりゃくじ)東塔東谷仏頂尾衆徒(しゅと)の支配を受けている。得珍保は保内ともいわれ、田方とよばれる上四郷7か村と、畑方・野々郷とよばれる下四郷7か村とから構成される。下四郷は畑作による農業生産性の低さを商業によって補完する。下四郷の保内商人は延暦寺や守護六角(ろっかく)氏の保護下に近在の商人の権利を侵害し、伊勢越(いせごえ)の八風(はっぷう)・千草(ちぐさ)両街道の木綿、紙などの輸送権を獲得し、得珍保近辺の市場専売権を奪取し、湖西の九里半街道の輸送権を併呑(へいどん)していった。保内商人は近江商人の原型と考えられている。保内商業と今堀郷の惣村(そうそん)活動史料は、今堀日吉(ひよし)神社文書に収められている。

[仲村 研]

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百科事典マイペディア 「得珍保」の意味・わかりやすい解説

得珍保【とくちんほ】

近江国蒲生(がもう)郡の荘園。滋賀県八日市市(現・東近江市)の南半,かつての蒲生野の中心部に位置した比叡山延暦寺領。同寺東塔東谷仏頂尾(ひがしだにぶっちょうお)衆徒の管領。保名は開発僧名にちなむと伝えるが,開発や立荘の時期は不明。荘内は14世紀頃には8郷からなり,各郷は郷鎮守の宮座を中核として(そう)的結合を展開。また今堀郷を中心に伊勢・若狭などで商売をする保内(ほない)商人とよばれる商人団が結成された。
→関連項目近江商人蒲生野保内商人横関

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「得珍保」の解説

得珍保
とくちんのほ

近江国蒲生郡(現,滋賀県東近江市八日市)にあった延暦寺東塔院領荘園。立保の時期は不明。鎌倉中期には史料にみえる。保内の今堀郷の日吉(ひえ)神社に残された惣村掟(そうむらおきて)などの文書によって,村人たちの活動が知られる。保内は上四郷・下四郷にわかれ,農業活動を軸に山野や用水の共同管理を行い,各郷の宮座(みやざ)を中心に惣結合を発達させた。日吉神社の神人と称し商業活動を積極的に行った。商業座を結成し,他地域の商人と商圏の争いをしつつ伊勢から美濃・尾張・若狭,近江から京都へと活動圏を拡大。彼らは保内(ほない)商人とよばれ,守護六角氏とも密接に結びついて力を伸ばした。統一政権の成立過程で各郷の結合は解体され,13カ村の近世村へと姿を変えた。

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世界大百科事典(旧版)内の得珍保の言及

【足子】より

…《今堀日吉神社文書》などによれば,近江の蒲生,神崎,甲賀の諸郡,湖北から若狭に至る九里半街道沿い,伊勢の北部地方には多数の足子が散在していたことがわかる。近江の蒲生郡得珍保(とくちんのほ)(現,八日市市)のいわゆる保内座商人は若狭,伊勢,京都地方との隔地間取引に従事していたが,行商に際しては周辺地域に居住する数十名の足子を動員した。また伊勢行商に際しては伊勢の桑名,四日市,梅戸,丹生川などに分布する20名近くの足子を駆使していた。…

【近江商人】より

…近江商人の起源については朝鮮からの渡来人説などの諸説があるが,多くは京都に近接し,東海・東山・北陸の3道の集中する蒲生(がもう)・神崎(かんざき)・愛知(えち)・坂田の4郡に出自し,その地域が京都への物資の集散に従事する地理的条件下にあることに共通性をもつ。鎌倉時代後半に姿を現し,室町時代初期から商業圏を確立してゆく延暦寺領近江国蒲生郡得珍保(とくちんのほ)の商人(保内(ほない)商人ともいう)は,荘園のなかでは農業生産に恵まれない農民が近江・伊勢の国境の鈴鹿山脈の八風(はつぷう)街道千草街道の両街道での山越商業に従事したものである。保内商人は延暦寺や守護六角氏から排他的独占権(座権)を認定された。…

【講】より

…また1358年(正平13∥延文3),近江国蒲生郡島村の憑子衆中9人が,共有財産の田地,山林を奥島社大座衆中へ売却しているのは,講中が財政的基盤の上に結成されていることを示している。1416年(応永23),同国同郡得珍保(とくちんのほ)蛇溝郷の憑支講は,讃岐公という聖(ひじり)僧が講親となっている。得珍保は比叡山延暦寺領荘園であるから,讃岐公は延暦寺から出た聖僧と考えられ,郷村内の宗教活動を主導するとともに,村人の相互扶助活動の一環である憑支講を主催していることは注目される。…

【呉服座】より

…横関にはこのほかに山門根本中堂の寄人身分をもつ呉服座があり,15~16世紀に保内呉服座と近江国内市町での呉服売買の特権をめぐって争っている。保内呉服座は野々川衆ともよばれ,得珍保(とくちんほ)内諸郷,すなわち蛇溝郷4人,今堀郷2人,破塚郷1人,今在家郷2人等の10余人が山門に御服年貢を納めているので,彼らはその代償として呉服座の結成をみとめられていたものであろう。なお呉服座とは称していないが,地方には絹織物の特権的取引を行っていた座があった。…

【保内商人】より

…近江国蒲生上郡得珍保(とくちんのほ)の下四郷の商人をさし,野々郷(ののごう)商人,野々川商人ともいわれる。得珍保は比叡山の僧得珍が開発したという伝承をもつ荘園で,滋賀県八日市市の南部に位置する。…

【横関】より

…この地には中世後期には商人集団がおり,市庭があって繁盛していたようである。《近江今堀日吉神社文書》によると,1463‐65年(寛正4‐6)に横関商人と得珍保商人が呉服の本座をめぐって相論しており,一時横関方に有利な裁決があったが,結局は得珍保商人の勝利となった。1502年(文亀2)にも争いが再燃したが,これも得珍保の勝利に終わっている。…

※「得珍保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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